1.島津四兄弟の末弟「島津家久」

①島津家久とは

島津家久(しまづいえひさ)は、島津四兄弟の末弟として日向佐土原二万八千石の太守である。
同じ家久の名を持つ島津家十八代当主「島津家久」は、島津義弘(しまづよしひろ)の子「島津忠恒」(しまづただつね)の改名後の名であり別人格だ。
すなわち、義弘の弟の「家久」と義弘の子の「家久」である。
義弘の子「忠恒」は、関ヶ原の合戦後に徳川家康(とくがわいえやす)から授かった「家」、そして島津代々の「久」から家久を名乗ることになった。
ちなみに、島津忠恒についての著書は数少なく「薩摩の風に送られて」第一章・③島津忠恒の思惑においては、準主役的ポストで登場。
以降は、義弘の弟「家久」の記述とする。
家久は、祖父「日新斎」からは、「軍法戦術に妙を得たり」と評価される程に軍略に長け、兄の島津義久(しまづよしひさ)、義弘を支える参謀的ポジションでもあった。
また「智略の家久」と称される反面、軍略以外にも武略にも優れ長身であり現在でいう「イケメン」であったと伝えられる。
智略の家久と謳われた家久は、歴史上稀に見る大逆転劇という武勇伝の持ち主であった。
九州三国志の一角「竜造寺隆信」(りゅうぞうじたかのぶ)との戦い「沖田畷の戦い」。
天下人「豊臣秀吉」を相手に戦った「第一次九州征伐」における「戸次の戦い」。
これは、島津家久の戦略そして戦術であった。

島津家久から続く佐土原城

②島津家久の死因

豊臣秀吉(とよとみひでよし)の二度に渡る九州征伐。
地力、物量差を見せつかられた結果となり、残念ながら島津軍は「第二次九州征伐」にて劣勢を免れず敗北を喫する。
敗北後の家久は、島津家の安泰のために奔走。
秀吉の弟であり、実質的ナンバー2である「豊臣秀長」(とよとみひでなが)を通じて和平工作を開始。
秀長は、鮮明な家久を受け入れるが佐土原城にて家久が急死。
様々な説が存在するが、戦国時代であれ急死はあまりにも不自然である。
人徳の秀長とはいえ、豊臣家の安泰を最優先と考えるのは自然であり、背後に徳川家康を抱える秀長にとっては、早々に九州征伐を終結しなければならない。
まだ、家久を降したとはいえ、本国の義久を筆頭に、義弘、歳久の抵抗が続いている。
これは、興味本位の推測として記載するが、やはり秀長の毒殺説では。
それほどまでに、秀長は家久の能力に脅威を感じていたのではないか。

豊臣秀長の大軍団が日向国に侵入

2.日向佐土原二万八千石「佐土原城」の歴史

①伊東四十八城としての宮崎県「佐土原城跡」

佐土原城(さどわらじょう)は、もともとは伊東氏の一族である「田島氏」が、現在の宮崎県宮崎市佐土原町上田島に築城したのが始まりとされる。
当時の名称は、「田島城」(たじまじょう)と呼んでいたが、本家伊藤氏が介入し佐土原氏を名乗り「佐土原城」と呼ばれるようになった。
伊藤氏は、この佐土原城を含む後の伊東四十八城を中心に現在の宮崎県である日向国支配を志し、16世紀には、薩摩国の島津氏との間で熾烈な日向争奪戦を繰り広げることになる。

伊東四十八城の一つ「佐土原城跡」

②島津家久の居城「佐土原城」

1536年(天文5)伊東義祐(いとうよしすけ)が伊東家十一代当主となり佐土原城へ入ると、さらに島津氏との争いが激化する。
この時、飫肥城(おびじょう)は島津家の分家「島津豊州家」が支配。
義祐は、将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)の和睦命令を無視するなど、飫肥に異常なまでの執着を見せ、数度に渡る飫肥攻めを行い飫肥城を手に入れる。
最終的に飫肥城は、島津方が取り返すことになるが、伊東氏に脅威を抱く島津氏は日向国境に若き猛将「島津義弘を配置。
これが、伊東氏の衰退を招く結果につながっていく。
1572年(元亀3)伊東義祐が手薄であった日向国真幸院の加久藤城(かくとうじょう)を攻撃。
ここに、後の「九州の桶狭間」と呼ばれた木崎原の戦いが勃発。
三千を超える伊東軍に対し、百人に満たない義弘率いる島津軍が大逆転勝利。
この敗戦により、義祐の求心力が低下し伊藤家は弱体化。
勢いに乗る島津に抗する事が難しいと判断した義祐は、豊後の大友氏を頼り落ち延びた。
島津軍は、日向へ侵攻を開始。
ここで「佐土原城」は島津方に渡ることになる。

島津家久の居城「佐土原城」

③佐土原城跡から見る歴史と天守閣の謎

日向国に侵攻した島津義久は、直ちに国境強化を図った。
島津四兄弟の三男「島津歳久」(しまづとしひさ)を肥後国境「祁答院」に。
そして、豊後「大友氏」への対応に四男「島津家久」を佐土原城へ配置し九州制覇戦に突入する。
以降、日向佐土原二万八千石として「島津家久」「島津豊久」「島津忠興」へと受け継がれることになる。
1996年(平成8)の発掘調査により天守台跡と金箔瓦の破片が見つかったことで、佐土原城の屏風伝説が真実となった。
しかし、天守閣がいつ存在したかは不明である。
江戸期の佐土原藩時代は、徳川体制でありえない。
島津氏が天守を造るのも考えにくい。
そうなると伊東義祐の栄華時代が天守も小規模ということから妥当ではないか。


6件のコメント

宇宿啓志(うすくひろし) · 2023年8月15日 6:09 PM

佐土原について詳細に記載ありがとうございます。佐土原に関する文章で、我々佐土原勢たいへんな悩みを抱えております。おおすみではおおすみでなく、江戸の頃から大隈とも記された文書が残っており、その誤記の理由根拠が話題になっているそうですが、佐土原も誤字等が数多く被害を被っております。現在の佐土原は日向灘に面し、本当に砂と土の原っぱなのですが、九州各県に存在する「佐土原」が正記です。そこのところ、実に多いのですが、タイピングの際はぜひとも、ご注意下さるようお願いいたします。2024年2月11日には、島津公佐土原入城420周年祭を開催します。ぜひいらして下さい! 新日向佐土原藩近畿東海代表

    satsuma-kaze · 2023年9月15日 11:08 PM

    ご指摘ありがとうございました。
    データを確認後、訂正させて頂きました。
    漏れがありましたら早急に対応したいと思っておりますのでご指摘お願い致します。
    私は、島津家に惹かれ20年前には、仕事をそっちのけで鹿児島へ通っておりました。
    宮崎県にも佐土原、都城、小林などご縁を頂きましたが、今でも、まだまだ勉強したいことがたくさんあり心が躍ります。
    私は、フェイスブックを登録しておりませんが、そちらの方も拝見させていただきました。
    現在、農業活動をしているために中々鹿児島・宮崎には行けませんが、機会をうかがっております。

「島津豊久」公の菩提寺・天昌寺跡(てんしょうじ) · 2023年2月16日 1:37 PM

[…] 島津豊久は、島津四兄弟の末弟「島津家久」の子として、島津家日向砂土原家の二代目当主となる。青年期には、沖田畷の戦い、根白坂の戦いなどに参戦し、父家久の後継として見事な働きを見せる。また、朝鮮半島での熾烈な戦い「朝鮮の役」でも、少数精鋭にて見事に明・朝鮮連合軍にも勝利。島津義弘(しまづよしひろ)と共に、シーマンズとして恐れられた。豊久は、父家久の死後、叔父となる島津義弘を慕い、義弘によく仕えた。そして、関ヶ原の戦いが起きる。義弘は、数百人という薩摩六十万石としては少なすぎる軍勢を率いて参戦。徳川家康へ配慮するあまり、義弘に援軍を送ることを渋った本国の島津義久(しまづよしひさ)に対し、他の諸将たちは、義弘への援軍を試みる。義久は、援軍の禁止令を出すが、豊久は、日向砂土原兵三百を伴い、禁止令を破り義弘の元に駆けつける。手勢が少ない義弘にとって、豊久の援軍は、心強かったであろう。他の諸将も駆けつけたが、合わせも千人にも満たない軍勢であった。その窮地の中で関ヶ原の戦いが始まるわけであるが、寡兵の島津軍は無駄に動かず時を待った。自陣の大将「石田三成」の使者も、豊久が刀を振りかざし追い返している。そして、自陣の小早川秀秋の裏切りで、味方の敗戦が確実となったその時。遂に島津義弘、豊久率いる島津軍が動いた。敗走する味方は、西に向かって逃げる中、島津軍は、敵の総大将「徳川家康」率いる東へ向かったのである。これが、有名な『島津の敵中突破』や『島津の退き口』と呼ばれる、歴史上類を見ない脱出劇であった。その先頭に立ったのが、島津豊久である。最強島津の強さを知る敵の軍勢は、道を開き島津軍は、伊勢街道を南へ方向転換し戦場を離脱していった。当然、徳川軍も指を咥えて見るわけもなく、徳川最強部隊である「本多忠勝」「井伊直政」が島津軍を追撃。流石の島津軍も、最終兵器を持ち出した。非常の戦術『捨て奸(すてがまり)』である。次々と、殿(しんがり)部隊が倒される中、遂に大将格でもある豊久が自ら「捨てがまり」を決行。迫る、井伊直正率いる「井伊の赤備え」。豊久は、直政に的を絞り見事に打撃を与える事に成功。その中には、家康の子「松平忠吉」の姿も見えたが、負傷し落馬することで徳川軍の進撃がとまる。しかし、当然の如く豊久も激闘の末、討ち死にすることになる。 […]

鹿児島県南さつま市の加世田「竹田神社」と島津家中興の祖「島津忠良」(日新公) のいろは歌 · 2023年2月16日 1:48 PM

[…] 伊作島津家(現在の日置市吹上町)の出身である島津忠良により、義久、義弘を中心とした戦国島津家が誕生する。 父「善久」の死により、相州家当主「島津運久」(しまづゆきひさ)の養子となることで、1512年に忠良は、伊作家そして、相州家の当主となる。 その頃、島津宗家の継承者争いが絶えなかった。 忠良は、宗家となった島津勝久(頴娃忠兼)と勝久の支援者であっものの宗家を狙う「島津実久」との争いに巻き込まれる形で、宗家の勝久を支援する。 勝久の養嗣子として子の「島津貴久」を送り込み、貴久を宗家当主とすることに成功するも、不安定な状況が続いた。 後に、島津実久、島津忠辰を破り、ようやく貴久が真の宗家当主となったのは、1539年の事であった。 忠良は、日新斉と名乗り隠居するも、貴久と共に三州統一に乗り出す。 特に、大隅における祁答院良重の岩屋城を攻めた「岩屋城の戦い」においては、忠良、貴久と島津義久(しまづよしひさ)、島津義弘(しまづよしひろ)、島津歳久(しまづとしひさ)兄弟が一堂に揃ったのは有名である。 以降、義久、義弘、島津家久(しまづいえひさ)、島津忠恒(しまづただつね)と九州の雄として全国に名を轟かす戦国島津家であるが、忠良が「島津家中興の祖」と呼ばれる所以である。 […]

第一章・①迷い | 豊臣秀吉の死と、苦悩する島津義弘~薩摩の風に送られて(ここから始まります) · 2023年2月16日 1:54 PM

[…] 嵐の前の静けさか。大坂の島津屋敷も静かである。そこに苦悩する一人の武将がいる。島津家第十七代守護、島津義弘(しまづよしひろ)である。そこに甥の島津豊久(しまづとよひさ)が現れた。「叔父上、ただいま使者が着き申した」義弘が答える。「うむ、通せ」この二人は、実の親子以上に絆が深い。島津豊久、日向砂土原二万八千石の城主。父は義弘の弟で今は亡き智将、島津家久(しまづいえひさ)である。義弘には家久のほか、二人の兄弟がいる。長男「島津義久」(しまづよしひさ)、島津家第十六代守護である。豊臣秀吉の九州征伐軍には敗れはしたが、九州制覇という偉業を掴みかけた名将である。三男「島津歳久」(しまづとよひさ)、この時既に他界してはいるが、武勇のみでは義弘をも凌駕すると噂された猛将であった。この四人が、彼の有名な島津四兄弟である。人徳の義久、武勇の義弘、そして今は亡き知略の家久と謳われていた。義弘が使者に問う。「で! 兄上の考えは?」使者が答える。「東西何方にも付かず中立せよ・・との」義弘が呆れ顔で応える。「やはりそうか・・・」 […]

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