天智天皇が由来、日本一複雑な住所である志布志城跡

まず、志布志城跡の住所は、「鹿児島県志布志市志布志町」の『志布志城跡』である。
これだけ同じ漢字が並ぶ住所は珍しい。
志布志の場合「志」であるが、その由来は、第三十八代天皇「天智天皇」がこの地を訪れた時、滞在した主人の妻と侍女が二人とも布を献上した。
これに天智天皇が「上からも下からも志として布を献じたことは誠に志布志である」と言った。
それが由来で志布志と呼ばれるようになったといわれる。
ちなみに志布志港は、「鹿児島県志布志市志布志町」の『志布志港』である。

天智天皇由来の志布志

戦国期における 「志布志城 」 と城主「鎌田政近」

南北朝時代から存在した志布志城は、戦国期に入り薩摩島津氏の直轄の城となった。
三州統一戦の折、志布志一帯を支配していた肝付氏を撃破。
その後、島津家家臣「鎌田政近」が志布志地頭となり志布志城に入った。
鎌田政近は、三州統一戦の後も、島津四兄弟による九州制覇戦においても活躍する。
特に、豊後の大友宗麟との戦い「耳川の戦い」において大活躍をした。
関ヶ原の戦いの戦後処理にて、徳川方と掛け合った一人としても名が挙げられる。
志布志城は、とにかく縄張りが広い。
「内城」「松尾城」「高城」「新城」の4つの城を総称して志布志城と呼ばれていた。

志布志城の一角「松尾城」

志布志港から出港するフェリー「さんふらわあ」と志布志城見学

大阪南港と志布志港を結ぶフェリー「さんふらわあ」。
鹿児島観光にて、たくさんの方が利用すると思われますが、電車とは違いフェリーの本数は1日に1回程度である。
鹿児島市内から志布志へ向かう国道は、特に台風、大雨などの日には、がけ崩れなどが多発し危険なため注意が必要。
さらに、大隅半島の交通機関の便は、あまりよくないために、早めに志布志港に向かうのが当然のことであるが、そこで問題となるのが待ち時間である。
残念なことに、志布志市街で時間を潰す場所は少ない。
そこで、志布志城の見学をお勧めしたい。
幸いなことに志布志城の敷地は広く、2~3度は、利用出来る筈である。

鹿児島へ行くときは、志布志または、宮崎から出港するフェリー「さんふらわあ 」 が便利


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