1.島津の「岩剣城の戦い」と「三州統一」

日新公「島津忠良」(しまづただよし)、島津貴久(しまづたかひさ)、島津四兄弟が顔を揃えた由一の戦いと伝えられる岩剣城の戦い(いわつるぎじょうのたたかい)。
祁答院に本領を持ち、大隅地方に勢力を伸ばしていた祁答院良重(けどういんよししげ)は、蒲生範清(かもうのりきよ)ら大隅の豪族と図り、島津貴久に反旗を翻す。
蒲生軍が、配下の肝付氏が守る「加治木城」(かじきじょう)を攻撃し戦いが始まった。
加治木城を救援すべく、島津忠良、貴久親子が出陣するが、目障りな城があった。
岩剣城である。
忠良、貴久親子は、まず「岩剣城」を攻めるため、島津義久、義弘兄弟を差し向ける。
この時、「息子たちである兄弟のうち、一人の命を落とさなければ落ちないであろう」と岩剣城攻めの難しさを嘆いた。
この岩剣山は独特の形にて、近くでを見上げれば「剣」のイメージが容易に付く。
しかし、岩剣城攻城戦に島津義久(しまづよしひさ)島津義弘(しまづよしひろ)島津歳久(しまづとしひさ)が活躍。
この時、義弘自らが鉄砲を使用したなど、国内で初めて鉄砲が実戦に用いられたとして知られる。
岩剣城の戦いに勝利した島津家は、その勢いで「三州統一」を成し遂げる。

岩剣城跡(鹿児島県姶良市平松)岩剣神社

2.岩剣城跡と蒲生氏

もともと蒲生氏は、藤原北家を祖とする藤原一族である。
藤原秀郷を祖とする近江の蒲生氏。
藤原教清(ふじわらのりきよ)を祖とする九州の大隅の蒲生氏が存在する。
ちなみに、戦国武将で名高い「蒲生氏郷(がもううじさと)」は、近江の蒲生氏と伝わる。
戦後期における大隅の蒲生氏、すなわち大隅蒲生氏十六代当主「蒲生茂清」(かもうしげきよ)は、薩摩島津家と対立していたに渋谷氏一族と手を組み、島津貴久と戦うこととなる。
その後も、祁答院氏に組みすることで、島津家からの攻撃を受けることとなり「岩剣城」に危機が訪れた。
これが「岩剣城の戦い」である。
島津貴久率いる島津軍は、義久、義弘、歳久という後の英雄達を主力に岩剣城に激しく攻めかかった。
そして、遂に「岩剣城」が落城。
その時には、蒲生氏も茂清から、十六代当主「蒲生範清(かもうのりきよ)」と代わり、範清が降伏。
降伏した蒲生家は、十五代当主充清の子「清親」の嫡男「清綱」が蒲生氏十八当主となり、以降、島津軍の一員として戦国末期を生き抜くことなる。
一方範清は、島津に服従することを拒み、入来院氏を頼り歴史上から姿を消した。
また、範清の孫は、加賀の前田利長(瑞龍院殿聖山英賢大居士)に仕えたと伝わる。

蒲生範清が降伏「岩剣城」

1件のコメント

薩摩の猛将「島津義弘」と島津義弘公の菩提寺「妙円寺」 · 2023年2月15日 4:53 PM

[…] 島津義弘(しまづよしひろ)は、薩摩島津氏十七代当主であり薩摩の猛将である。祖父にいろは歌でも有名な「島津日新斉」(しまづじっしんさい)、父に十五代当主「島津貴久」(しまづたかひさ)を持ち、兄弟には、島津義久(しまづよしひさ)、島津歳久(しまづとしひさ)、島津家久(しまづいえひさ)がいる。そして、この兄弟はいずれも当主としての器量を兼ね備え優秀であったことから、九州においては島津四兄弟としてその名を轟かせた。義弘の青年期は、現在の鹿児島県、そして宮崎県である薩摩国、大隅国、日向国にて各豪族を巻き込んだ島津家の主権争い、そして、隣国との戦いに若くして参戦。この戦いは、三州統一戦(さんしゅうとういつせん)と呼ばれ、岩剣城の戦い(いわつるぎじょうのたたかい)が有名である。この岩剣城の戦いは、祖父「日新斉」、父「貴久」そして四兄弟が勢揃いした最初で最後の戦いであった。この戦いに勝利した日新斉、貴久は、島津家宗家の地位を安泰に導くことに成功する。しかし、三州統一を果たした島津家であったが、長年の宿敵である日向国「伊東義祐」(いとうよしすけ)が三千の兵を率いて義弘不在の「加久藤城」(かくとうじょう)を急襲。急遽帰城した義弘であったが、兵が揃わず百人にも満たない軍勢で戦いに挑む。義弘は、軍を三手に分けて伊東軍を混乱に導いた。これが世にいう「島津の釣り野伏せ」である。九州に義弘ありを決定づけたこの戦いは「木崎原の戦い」(きざきばるのたたかい)と後世に語り継がれ、稀に見る大逆転勝利は、後に九州の桶狭間(おけはざま)と謳われた。後に木崎原の戦いに敗れた伊東義祐は、豊後の大友宗麟(おおともそうりん)の元に逃れ島津氏の北上のけっかけを与えてしまう。一方、島津家は、十五代当主「貴久」から十六代当主「義久」へと代替わりを果たし、義弘を中心とした島津四兄弟の九州制覇戦へ突入していくのである。 […]

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