1.薩摩の猛将「島津義弘」とは

島津義弘(しまづよしひろ)は、薩摩島津氏十七代当主であり薩摩の猛将である。
祖父にいろは歌でも有名な「島津忠良」(しまづただよし)、父に十五代当主「島津貴久」(しまづたかひさ)を持ち、兄弟には、島津義久(しまづよしひさ)島津歳久(しまづとしひさ)、島津家久(しまづいえひさ)がいる。
そして、この兄弟はいずれも当主としての器量を兼ね備え優秀であったことから、九州においては島津四兄弟としてその名を轟かせた。
義弘の青年期は、現在の鹿児島県、そして宮崎県である薩摩国、大隅国、日向国にて各豪族を巻き込んだ島津家の主権争い、そして、隣国との戦いに若くして参戦。
この戦いは、三州統一戦(さんしゅうとういつせん)と呼ばれ、岩剣城の戦い(いわつるぎじょうのたたかい)が有名である。
この岩剣城の戦いは、祖父「日新斉」、父「貴久」そして四兄弟が勢揃いした最初で最後の戦いであった。
この戦いに勝利した日新斉、貴久は、島津家宗家の地位を安泰に導くことに成功する。
しかし、三州統一を果たした島津家であったが、長年の宿敵である日向国「伊東義祐」(いとうよしすけ)が三千の兵を率いて義弘不在の「加久藤城」(かくとうじょう)を急襲。
急遽帰城した義弘であったが、兵が揃わず百人にも満たない軍勢で戦いに挑む。
義弘は、軍を三手に分けて伊東軍を混乱に導いた。
これが世にいう「島津の釣り野伏せ」である。
九州に義弘ありを決定づけたこの戦いは「木崎原の戦い」(きざきばるのたたかい)と後世に語り継がれ、稀に見る大逆転勝利は、後に九州の桶狭間(おけはざま)と謳われた。
後に木崎原の戦いに敗れた伊東義祐は、豊後の大友宗麟(おおともそうりん)の元に逃れ島津氏の北上のけっかけを与えてしまう。
一方、島津家は、十五代当主「貴久」から十六代当主「義久」へと代替わりを果たし、義弘を中心とした島津四兄弟の九州制覇戦へ突入していくのである。

2.戦国末期最強の戦国大名「島津義弘」公の菩提寺

鹿児島県日置市伊集院町徳重にある曹洞宗寺院「妙円寺」(きょうえんじ)は、1390年(明徳元)の建立から廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)そして、再興と600年の歴史を持つ。
島津義弘の帰依が厚く菩提寺とし、義弘公の木像が置かれていた。
しかし、廃仏毀釈のため「徳重神社」(とくしげじんじゃ)の御神体として安置される。
そして、現在「妙円寺(妙圓寺)」は、徳重神社の西側に復興されており、
妙円寺参りには、徳重神社と共に大勢の参拝者が訪れる。

法智山「妙円寺」

島津義弘と薩摩の旅、随時掲載中
小説・薩摩の風に送られて・目次


10件のコメント

岩剣城(いわつるぎじょう)の戦いで、島津義弘が祁答院良重を撃破 · 2023年2月15日 4:13 PM

[…] 日新公「島津忠良」(しまづただよし)、島津貴久(しまづたかひさ)、島津四兄弟が顔を揃えた由一の戦いと伝えられる岩剣城の戦い(いわつるぎじょうのたたかい)。祁答院に本領を持ち、大隅地方に勢力を伸ばしていた祁答院良重(けどういんよししげ)は、蒲生範清(かもうのりきよ)ら大隅の豪族と図り、島津貴久に反旗を翻す。蒲生軍が、配下の肝付氏が守る「加治木城」(かじきじょう)を攻撃し戦いが始まった。加治木城を救援すべく、島津忠良、貴久親子が出陣するが、目障りな城があった。岩剣城である。忠良、貴久親子は、まず「岩剣城」を攻めるため、島津義久、義弘兄弟を差し向ける。この時、「息子たちである兄弟のうち、一人の命を落とさなければ落ちないであろう」と岩剣城攻めの難しさを嘆いた。この岩剣山は独特の形にて、近くでを見上げれば「剣」のイメージが容易に付く。しかし、岩剣城攻城戦に島津義久(しまづよしひさ)、島津義弘(しまづよしひろ)、島津歳久(しまづとしひさ)が活躍。この時、義弘自らが鉄砲を使用したなど、国内で初めて鉄砲が実戦に用いられたとして知られる。岩剣城の戦いに勝利した島津家は、その勢いで「三州統一」を成し遂げる。 […]

島津義弘公を祀る徳重神社(とくしげじんじゃ) を目指し、妙円寺詣りの若武者が鹿児島を奔ります · 2023年2月15日 4:29 PM

[…] 徳重神社(とくしげじんじゃ)は、1390年(明徳元)建立の「妙円寺」(みょうえんじ)が廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)にて廃寺後、1871年(明治4)に創祀される。 島津義弘公の木像は、「妙円寺」から、「徳重神社」の御神体として安置され現在に至る。 毎年秋に日置市にて行われる「妙円寺参り」は、この島津義弘公の木像を参拝するため鹿児島から妙円寺までを夜を徹して歩き参拝したことから始まった。 また、敷地内には、義弘の子「島津忠恒」(しまづただつね)が建立した、島津義弘公殉死者13名地蔵塔が並び、妙円寺参りには、妙円寺(妙圓寺)と共に大勢の参拝者と島津義弘ファンが訪れる。 […]

九州三国志①島津四兄弟の九州制覇戦~戦国最強軍団が九州を北上 · 2023年2月15日 4:34 PM

[…] 1586年(天正14)、関白「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)は、中国の毛利輝元(もうりてるもと)、四国の長曾我部元親(ちょうそかべもとちか)を降し徳川家康(とくがわいえやす)をも従えた。全国制覇もほぼ完成しつつある。残るは関東の北条氏政(ほうじょううじまさ)、奥州の伊達政宗(だてまさむね)、そして九州・薩摩島津氏の島津義久(しまづよしひさ)、島津義弘(しまづよしひろ)兄弟のみとなった。これまでの九州は、豊後の大友宗麟(おおともそうりん)をはじめ、肥前の竜造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)、薩摩・大隈の島津義久、義弘を中心に三国が凌ぎを削り後に九州三国志(きゅうしゅうさんごくし)と謳われるようになる。その後、状況は一転。均衡を破ったのは島津であった。島津は長兄であり当主の義久を筆頭に、義弘、島津歳久(しまづとしひさ)、島津家久(しまづいえひさ)と稀代の名将で島津四兄弟(しまづよんきょうだい)と恐れらた。義久は本国にてどっしりと構え、義弘は前線にて指揮を執る。島津四兄弟率いる島津軍は、薩摩から大隈、日向の三州を統一し、九州三大勢力の一角を占めるほどに成長した。いよいよ九州制覇戦(きゅうしゅうせいはせん)へ突入した島津軍は、怒涛の如く北上を開始。そして、九州最大勢力である大友宗麟と雌雄を決する日が訪れた。九州制覇戦の3大決戦のひとつ「耳川の戦い」である。臼杵城(うすきじょう)を出陣した大友宗麟は、三万を超える大軍を持って日向国に進軍を開始した。 […]

九州三国志③第二次九州征伐~劣勢の島津義久 · 2023年2月15日 4:37 PM

[…] 第一次九州征伐に大敗を喫した豊臣軍は、関白「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)自らが腰を上げた。秀吉軍は、大きく二方面より九州に進軍し、秀吉本隊は、熊本・八代より、別働隊は秀吉の弟「豊臣秀長」(とよとみひでなが)が豊後、府内より薩摩を目指した。その数二十万と伝えられる。あまりの大軍に島津義弘(しまづよしひろ)は支えきれずと判断し、豊後からの撤退を始める。そして日向高城をめぐり戦いが始まった。勇猛で知られる島津忠長(しまづただなが)も援軍に向かったが、高城も支えきれず、島津軍が薩摩へ撤退。 […]

九州三国志④島津歳久の意地~義久降伏、しかし・・・ · 2023年2月15日 4:52 PM

[…] なんと関白「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)から安堵されたのは薩摩一国のみであった。島津義久(しまづよしひさ)は、お家存続のためやむを得ず降伏したが、義久は悪感を覚えた。弟達の行動である。“義久降伏”それは通常であれば、島津家の降伏を意味する。義久の悪い予感が的中した。島津義弘(しまづよしひろ)以下、島津歳久(しまづとしひさ)、新納忠元(にいろただもと)などは、徹底抗戦の構えを崩さなかった。義弘の狙いは薩摩のみではなく、大隈、日向の安堵。これを死守線と考えた。九州制覇戦においても実質総大将であった義弘が屈服しなければ、島津の戦いは終わらない。結果、義弘は粘り続け秀吉から三州の所有を認めさせた。これで戦いは終わったと思いきや、さらに波乱が起きる。義弘が降伏した後も、三男歳久が徹底抗戦の構えを崩さなかったのである。歳久としては、もともと秀吉との戦いは無謀と判断していた。しかし、一旦戦ったのであれば最後まで戦う。しかも、後継となる忠隣をこの戦で亡くしている。やはり考えは一つ、徹底抗戦であった。その意味としては、守護代の兄義弘とは異なっていた。お家を第一に考えなければならない立場、当主義久。さらに考え結末を優位に導く義弘。純粋に武門の意地を通しつくす歳久。 […]

島津家久と佐土原城址の歴史 · 2023年2月16日 1:28 PM

[…] 1536年(天文5)伊東義祐(いとうよしすけ)が伊東家十一代当主となり佐土原城へ入ると、さらに島津氏との争いが激化する。この時、飫肥城(おびじょう)は島津家の分家「島津豊州家」が支配。義祐は、将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)の和睦命令を無視するなど、飫肥に異常なまでの執着を見せ、数度に渡る飫肥攻めを行い飫肥城を手に入れる。最終的に飫肥城は、島津方が取り返すことになるが、伊東氏に脅威を抱く島津氏は日向国境に若き猛将「島津義弘」を配置。これが、伊東氏の衰退を招く結果につながっていく。1572年(元亀3)伊東義祐が手薄であった日向国真幸院の加久藤城(かくとうじょう)を攻撃。ここに、後の「九州の桶狭間」と呼ばれた木崎原の戦いが勃発。三千を超える伊東軍に対し、百人に満たない義弘率いる島津軍が大逆転勝利。この敗戦により、義祐の求心力が低下し伊藤家は弱体化。勢いに乗る島津に抗する事が難しいと判断した義祐は、豊後の大友氏を頼り落ち延びた。島津軍は、日向へ侵攻を開始。ここで「佐土原城」は島津方に渡ることになる。 […]

鹿児島県南さつま市の加世田「竹田神社」と島津家中興の祖「島津忠良」(日新公) のいろは歌 · 2023年2月16日 1:42 PM

[…] 伊作島津家(現在の日置市吹上町)の出身である島津忠良により、義久、義弘を中心とした戦国島津家が誕生する。 父「善久」の死により、相州家当主「島津運久」(しまづゆきひさ)の養子となることで、1512年に忠良は、伊作家そして、相州家の当主となる。 その頃、島津宗家の継承者争いが絶えなかった。 忠良は、宗家となった島津勝久(頴娃忠兼)と勝久の支援者であっものの宗家を狙う「島津実久」との争いに巻き込まれる形で、宗家の勝久を支援する。 勝久の養嗣子として子の「島津貴久」を送り込み、貴久を宗家当主とすることに成功するも、不安定な状況が続いた。 後に、島津実久、島津忠辰を破り、ようやく貴久が真の宗家当主となったのは、1539年の事であった。 忠良は、日新斉と名乗り隠居するも、貴久と共に三州統一に乗り出す。 特に、大隅における祁答院良重の岩屋城を攻めた「岩屋城の戦い」においては、忠良、貴久と島津義久(しまづよしひさ)、島津義弘(しまづよしひろ)、島津歳久(しまづとしひさ)兄弟が一堂に揃ったのは有名である。 以降、義久、義弘、島津家久(しまづいえひさ)、島津忠恒(しまづただつね)と九州の雄として全国に名を轟かす戦国島津家であるが、忠良が「島津家中興の祖」と呼ばれる所以である。 […]

北薩戦国物語プロローグ③ | 関白「豊臣秀吉」と「大坂城」 · 2023年2月16日 5:45 PM

[…] 織田信長が本能寺の変で倒れ、羽柴秀吉(はしばひでよし)が信長の実質的な後継者として台頭する。秀吉は、四国、中国を支配に収めたところで1583年(天正11)に大坂城築城を着手。正式な完成は、1598年(慶長3)とされるが、内堀、外堀の二重堀、そして豪華な天守閣を備えた紛れもなく日本一の城であった。関白となった秀吉は、この城が完成に近づくと同時に、1586年(天正14)九州の島津征伐に乗り出した。第一次九州征伐である。第一次で苦戦した豊臣軍であったが、第二次九州征伐にて島津義久(しまづよしひさ)、島津義弘(しまづよしひろ)兄弟を降し、返す刀で関東の北条氏をも降す。秀吉の全国統一である。この大坂城には、徳川家康、上杉景勝、毛利輝元、島津義久などが秀吉に拝謁し、秀吉に臣下の礼をとった権威の象徴でもある。大坂城を目の当たりにした大名達は、田舎百姓の秀吉に舌打ちしながらも恐れおののいたに違いない。しかし、この難攻不落と謳われた「大坂城」も、徳川家康により1614年(慶長19)大坂の陣にて落城。外堀も埋められ、天守も傷ついた大坂城は、豊臣家の滅亡と共に歴史の表舞台から姿を消すことになる。ちなみに大坂は、台地に沿った坂に町が形成されたことから、「小坂」(おさか)から「大坂」(おおさか)になったと伝えられる。 […]

第七章・4.清正の涙 | 島津義弘、単独で加藤清正の熊本城へ乗り込む · 2023年2月17日 11:54 PM

[…] 島津義弘(しまづよしひろ)が熊本城へ来た。九州で唯一島津の手に落ちていないのは、ここ熊本だけである。天下の堅城「熊本城」(くまもとじょう)と、猛将、加藤清正(かとうきよまさ)であるからこそ、ここまで持ち堪えていられたのである。熊本城は、騒ぎになった。島津義弘自らが、わずかな護衛のみで熊本城に入ったからである。加藤清正の子、正影が勇む。「父上、いい機会ではござらぬか。義弘を人質にとれば挽回できるかも」清正が怒る。「馬鹿もの、そんな卑怯な真似が出来るか!」「しかも、義弘殿は交戦中の敵中へ、僅かな人数で来ているのだぞ」「丁重に通せ」義弘が入って来た。「清正殿、久しゅうござるな」清正が丁重に応える「はあ。こんな形で会うとは思いもよりませなんだ」清正は、義弘を尊敬している。朝鮮の役でも、義弘が二十万の明軍を破らなかったら、日本軍は皆殺しになっていた可能性が高い。清正以外でも、義弘は多くの武将から尊敬されていた。関ヶ原での敵中突破時、東軍が道を開いたのも、そういう経緯があったからである。「ところで、清正殿。秀頼様が家康に大坂城を追い出された事を知っておられるのか?」「そ、それは誠でござるか?」「宇喜多殿の岡山城へ避難したらしい」清正が珍しく動揺する。三成嫌いから家康に力を貸そうとしたが、豊臣家第一である思いは変わらない。「清正殿がいなければ、豊臣家は滅亡しますぞ」 […]

心岳「島津歳久」と竜ヶ水の「平松神社」 · 2023年2月18日 4:22 PM

[…] 島津歳久(しまづとしひさ)は、島津四兄弟の三男として薩摩祁答院の太守である。1563年(永禄6)から松尾城(吉田城)に入り、大隅国吉田院の領主となり、1580年(天正8)吉田院から自害するまでの間、祁答院の領主として活躍する。歳久は、兄「島津義弘」(しまづよしひろ)をも凌駕すると言われ、武略の歳久として名を馳せた。兄「島津義久」(しまづよしひさ)曰く、義弘は死を恐れない戦いをし、歳久は死を望むかの如く戦いをする。それを案じた義久は、無謀なまでに敵と戦う歳久を、身近な本陣に留めておくことも多々あったとか。そのため、他からは義久の参謀の様に映ったことから「智謀の歳久」とも称された。1576年(天正4)、この頃から本格的な島津家の九州制覇戦が始まる。歳久は、日向の伊東義祐(いとうよしたけ)、豊後の大友宗麟(おおともそうりん)と戦い、また、肥前の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)との沖田畷の戦いにおいては、肥後国の佐敷(さじき)に本陣を置いていた。これが、後の梅北一揆に起因するかは不明である。そして、関白「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)の九州征伐がはじまる。歳久は、天下人秀吉と島津家の力の差を察し義久に抗戦反対の意を示した。しかし島津家は、戦争に突入し敗北を喫することになる。当初、抗戦反対の意を示した歳久は、後に降参した義久に従わず、秀吉に弓を弾き後に秀吉の怒りを買う結果となった。一度戦えば、とことんやり通す!これが、武略の歳久こと「島津歳久」という漢である。 […]

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