島津歳久が、竜ヶ水「平松神社」にて自害するまでの経緯

文禄元年(1592)、肥後(現在の熊本県)にひとつの騒動が起こった。
ひとつ間違えれば、島津家存続に関わる一大事である。
当時、太閤秀吉の命により、国中の大名達が朝鮮出兵のため、肥前名護屋に集結中であった。
島津家も続々と兵を肥前名護屋へ送り込む。
事件は、その時起こった。
集結中の島津家家臣「梅北国兼」が、突如肥前名護屋から引き返し、途中肥後の佐敷城を急襲し城を奪った。
その中には、佐敷の百姓なども加わり一時は、八代攻撃の気配も見せ始めるほどの勢いを見せた。
一揆は間もなく制圧されるが、これが有名な梅北一揆である。
秀吉にすれば当然、薩摩と肥後国境に近い歳久に疑いをかけるのが当然の成り行きである。
秀吉は、義久に歳久の首を刎ね、献上することを命ずる。
実のところ秀吉は、歳久には、もうひとつの事を深く根に持っている。
九州征伐も終わりを告げた時、大口の「曽木の滝」を見物し帰途の最中であった。
その時、歳久所領の宮之城を通過中、矢を射られた経緯がある。

外伝・九州三国志④島津歳久の意地~義久降伏、しかし・・ を参照

島津四兄弟の三男「島津歳久」公を祀る・平松神社(ひらまつじんじゃ)

梅北一揆時の「歳久」は、病の身であり、本一揆に関わったとは考えにくい。
しかし、義久も、島津家存続のためこれ以上「歳久」を庇う事が出来なかった。
七月、遂に歳久を鹿児島へ呼びつける。
義久の心情を察した歳久は、鹿児島へ入り、急遽船で竜ヶ水へ上陸。
現在の平松神社付近で追っての義久勢と小競り合いの後、自害する。
あくまでも義久が、歳久を征伐したかのように演出した。
これにより秀吉は、義久への猜疑心を払拭するが、歳久の最後の想いであろうか?
義久も、歳久を心ならず自害に追い込んだことに悲涙に沈んだ。
秀吉の死後、義久は歳久を弔い心岳寺を建立。
明治三年(1870)の廃仏毀釈後、平松神社として、今でも二人の想いの句が刻み込まれている。

想いが伝わる兄「島津義久」の歌

清蓑めが玉のありかを人はば、いざ白雲の末とこたえん
歳久
鹿児島より稲荷山の紅葉とて、手折て送られし時 歳久のため
義久

西郷隆盛の入水事件と島津歳久の精神

安政の大獄に伴い、捕縛対象となってしまった「西郷隆盛」。
西郷は、同志の勤皇僧月照とともに護送戦の中で、歳久の故事を話し竜ヶ水沖にて入水自殺を図る。
結果、西郷の命は助かり、後に再び中央政界に復帰する。
自らを歳久に喩えたことが藩内に大きな支持を得て伝説の指導者となっていく。
歳久は、精神面としても西郷の憧れでもあった。

竜ヶ水と平松神社


1件のコメント

北薩戦国物語探訪★五章・義久の涙!わが首は白雲のうえと~島津歳久と新岳寺【鹿児島市吉野町(竜ヶ水)】 · 2022年1月28日 11:05 PM

[…] 歳久が、鹿児島へ向かった。〈やはりそうか・・〉島津歳久は、不穏な空気を察した。鹿児島へ入るや、義久の手の者がそわそわしている。歳久が、兵を止める。すると、やはり義久兵の動きが、にわかに不自然な動きを見せた。「歳久様が気付かれた。背後に回りこめ」後ろへ回り込もうとする義久兵に気付き、歳久も一気に来た路を引き返す。そこで、初めて刀を抜き小競り合いが始まった。しかし、その小競り合いも島津兵らしからぬ生やさしいものである。その小競り合いの合間をぬぐって、歳久は逃げ出し、小山を登った。〈兄者に討たれるのであれば・・・〉そこは、竜ヶ水といい、桜島が美しく見える。後に、心岳寺となるが、現在は、島津歳久公を祭神とする「平松神社」が存在する。「よいか。我が死に体を渡すな。雲の上にと答えよ」家臣たちが応える。「それがしも、殿に着いてゆきまする」そこには、数百の歳久家臣達が座り込んでいた。歳久が腹を斬り、続き家臣たちも迷わず腹を割った。そこに、駆け付けた義久の家臣達は、唖然とした。この前までは同士であった中であり、涙がこぼれる。その後、義久もかけつけ歳久の首を両手で抱いた。 […]

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