1.島津歳久とは

島津歳久(しまづとしひさ)は、島津四兄弟の三男として薩摩祁答院の太守である。
1563年(永禄6)から松尾城(吉田城)に入り、大隅国吉田院の領主となり、
1580年(天正8)吉田院から自害するまでの間、祁答院の領主として活躍する。
歳久は、兄「島津義弘」(しまづよしひろ)をも凌駕すると言われ、武略の歳久として名を馳せた。
兄「島津義久」(しまづよしひさ)曰く、義弘は死を恐れない戦いをし、歳久は死を望むかの如く戦いをする。
それを案じた義久は、無謀なまでに敵と戦う歳久を、身近な本陣に留めておくことも多々あったとか。
そのため、他からは義久の参謀の様に映ったことから「智謀の歳久」とも称された。
1576年(天正4)、この頃から本格的な島津家の九州制覇戦が始まる。
歳久は、日向の伊東義祐(いとうよしたけ)、豊後の大友宗麟(おおともそうりん)と戦い、また、肥前の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)との沖田畷の戦いにおいては、肥後国の佐敷(さじき)に本陣を置いていた。
これが、後の梅北一揆に起因するかは不明である。
そして、関白「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)の九州征伐がはじまる。
歳久は、天下人秀吉と島津家の力の差を察し義久に抗戦反対の意を示した。
しかし島津家は、戦争に突入し敗北を喫することになる。
当初、抗戦反対の意を示した歳久は、後に降参した義久に従わず、秀吉に弓を弾き後に秀吉の怒りを買う結果となった。
一度戦えば、とことんやり通す!
これが、武略の歳久こと「島津歳久」という漢である。

「島津歳久」公を祀る平松神社

2.島津歳久が、竜ヶ水「平松神社」にて自害するまでの経緯

文禄元年(1592)、肥後(現在の熊本県)にひとつの騒動が起こった。
ひとつ間違えれば、島津家存続に関わる一大事である。
当時、関白秀吉の命により、国中の大名達が朝鮮出兵のため、肥前名護屋に集結中であった。
島津家も続々と兵を肥前名護屋へ送り込む。
事件は、その時起こった。
集結中の島津家家臣「梅北国兼」(うめきたくにかね)が、突如肥前名護屋から引き返し、途中肥後の佐敷城を急襲し城を奪った。
その中には、佐敷の百姓なども加わり一時は、八代攻撃の気配も見せ始めるほどの勢いを見せた。
一揆は間もなく制圧されるが、これが有名な梅北一揆である。
秀吉にすれば当然、薩摩と肥後国境に近い歳久に疑いをかけるのが当然の成り行きである。
秀吉は、義久に歳久の首を刎ね、献上することを命ずる。
実のところ秀吉は、歳久には、もうひとつの事を深く根に持っている。
九州征伐も終わりを告げた時、大口の「曽木の滝」を見物し帰途の最中であった。
その時、歳久所領の祁答院「宮之城」を通過中、矢を射られた経緯がある。

外伝・九州三国志④島津歳久の意地~義久降伏、しかし・・ を参照

歳久の首は、雲の上

3.島津四兄弟の三男「島津歳久」公を祀る「平松神社」

①竜ヶ水に建立した鹿児島の県曹洞宗「心岳寺」

梅北一揆時の「歳久」は、病の身であり、本一揆に関わったとは考えにくい。
そして、義久も、島津家存続のためこれ以上「歳久」を庇う事が出来なかった。
七月、遂に歳久を鹿児島へ呼び出す。
義久の心情を察した歳久は、鹿児島へ入り急遽船で竜ヶ水(りゅうがみず)へ上陸。
現在の平松神社(ひらまつじんじゃ)付近で追手の義久勢と小競り合いの後、自害する。
あくまでも義久が、歳久を征伐したかのように演出した。
これにより秀吉は、義久への猜疑心を払拭するが、歳久の最後の想いであろうか?
義久も、歳久を心ならず自害に追い込んだことに悲涙に沈んだ。
秀吉の死後、義久は歳久を弔い現在の鹿児島県鹿児島市吉野町に心岳寺(しんがくじ)を建立。
明治三年(1870)の廃仏毀釈後、心岳寺から平松神社として、今でも二人の想いの句が刻み込まれている。

曹洞宗「心岳寺」

②歳久の想いが伝わる兄「島津義久」の歌

清蓑めが玉のありかを人はば、いざ白雲の末とこたえん
歳久
鹿児島より稲荷山の紅葉とて、手折て送られし時 歳久のため
義久

島津義久、歳久へ

③西郷隆盛の入水事件と島津歳久の精神

安政の大獄に伴い、捕縛対象となってしまった「西郷隆盛」(さいごうたかもり)。
西郷は、同志の勤皇僧月照とともに護送戦の中で、歳久の故事を話し竜ヶ水沖にて入水自殺を図る。
結果、西郷の命は助かり、後に再び中央政界に復帰する。
自らを歳久に喩えたことが藩内に大きな支持を得て伝説の指導者となっていく。
歳久は、精神面としても西郷の憧れでもあった。

鹿児島錦江湾

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北薩戦国物語探訪★五章・義久の涙!わが首は白雲のうえと~島津歳久と新岳寺【鹿児島市吉野町(竜ヶ水)】 · 2022年1月28日 11:05 PM

[…] 歳久が、鹿児島へ向かった。〈やはりそうか・・〉島津歳久は、不穏な空気を察した。鹿児島へ入るや、義久の手の者がそわそわしている。歳久が、兵を止める。すると、やはり義久兵の動きが、にわかに不自然な動きを見せた。「歳久様が気付かれた。背後に回りこめ」後ろへ回り込もうとする義久兵に気付き、歳久も一気に来た路を引き返す。そこで、初めて刀を抜き小競り合いが始まった。しかし、その小競り合いも島津兵らしからぬ生やさしいものである。その小競り合いの合間をぬぐって、歳久は逃げ出し、小山を登った。〈兄者に討たれるのであれば・・・〉そこは、竜ヶ水といい、桜島が美しく見える。後に、心岳寺となるが、現在は、島津歳久公を祭神とする「平松神社」が存在する。「よいか。我が死に体を渡すな。雲の上にと答えよ」家臣たちが応える。「それがしも、殿に着いてゆきまする」そこには、数百の歳久家臣達が座り込んでいた。歳久が腹を斬り、続き家臣たちも迷わず腹を割った。そこに、駆け付けた義久の家臣達は、唖然とした。この前までは同士であった中であり、涙がこぼれる。その後、義久もかけつけ歳久の首を両手で抱いた。 […]

第一章・①迷い | 豊臣秀吉の死と、苦悩する島津義弘~薩摩の風に送られて(ここから始まります) · 2023年2月11日 7:51 PM

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九州三国志①島津四兄弟の九州制覇戦~戦国最強軍団が九州を北上 · 2023年2月14日 9:36 PM

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岩剣城(いわつるぎじょう)の戦いで、島津義弘が祁答院良重を撃破 · 2023年2月15日 4:14 PM

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薩摩の猛将「島津義弘」と島津義弘公の菩提寺「妙円寺」 · 2023年2月15日 4:52 PM

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九州三国志④島津歳久の意地~義久降伏、しかし・・・ · 2023年2月17日 10:45 PM

[…] なんと関白「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)から安堵されたのは薩摩一国のみであった。島津義久(しまづよしひさ)は、お家存続のためやむを得ず降伏したが、義久は悪感を覚えた。弟達の行動である。“義久降伏”それは通常であれば、島津家の降伏を意味する。義久の悪い予感が的中した。島津義弘(しまづよしひろ)以下、島津歳久(しまづとしひさ)、新納忠元(にいろただもと)などは、徹底抗戦の構えを崩さなかった。義弘の狙いは薩摩のみではなく、大隈、日向の安堵。これを死守線と考えた。九州制覇戦においても実質総大将であった義弘が屈服しなければ、島津の戦いは終わらない。結果、義弘は粘り続け秀吉から三州の所有を認めさせた。義弘の降伏により、事実上の秀吉による第二次九州征伐は終わるが、さらに波乱が起きる。義弘が降伏した後も、三男歳久が徹底抗戦の構えを崩さなかったのである。歳久としては、もともと秀吉との戦いは無謀と判断していた。しかし、一旦戦ったのであれば最後まで戦う。しかも、後継となる忠隣をこの戦で亡くしている。やはり考えは一つ、徹底抗戦であった。その意味としては、守護代の兄義弘とは異なっていた。お家を第一に考えなければならない立場、当主義久。さらに考え結末を優位に導く義弘。純粋に武門の意地を通しつくす歳久。 […]

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[…] 伊作島津家(現在の日置市吹上町)の出身である島津忠良(しまづただよし)により、島津義久、義弘兄弟を中心とした戦国島津家が誕生する。 忠良は1512年、父「善久」の死により、相州家当主「島津運久」(しまづゆきひさ)の養子となることで伊作家そして、相州家の当主となる。 その頃、島津宗家の継承者争いが絶えなかった。 忠良は、宗家となった島津勝久(しまづかつひさ)と勝久(もと頴娃忠兼)の支援者であっものの宗家を狙う「島津実久」(しまづさねひさ)との争いに巻き込まれる形で、宗家の勝久を支援する。 勝久の養嗣子として子の「島津貴久」(しまづたかひさ)を送り込み、貴久を宗家当主とすることに成功するも、不安定な状況が続いた。 後に、島津実久、島津忠辰(しまづただたつ)を破り、ようやく貴久が真の宗家当主となったのは、1539年の事であった。 忠良は、日新斉(じっしんさい)と名乗り隠居するも、貴久と共に三州統一に乗り出す。 特に、大隅における祁答院良重(けどういんよししげ)の岩屋城を攻めた「岩屋城の戦い」においては、忠良、貴久と島津義久(しまづよしひさ)、島津義弘(しまづよしひろ)、島津歳久(しまづとしひさ)兄弟が一堂に揃ったのは有名である。 以降、義久、義弘、島津家久(しまづいえひさ)、島津忠恒(しまづただつね)と九州の雄として全国に名を轟かす戦国島津家であるが、忠良が「島津家中興の祖」と呼ばれる所以である。 […]

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