1.義久、義弘、歳久、それぞれの思惑

なんと関白「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)から安堵されたのは薩摩一国のみであった。
島津義久(しまづよしひさ)は、お家存続のためやむを得ず降伏したが、義久は悪感を覚えた。
弟達の行動である。
“義久降伏”
それは通常であれば、島津家の降伏を意味する。
義久の悪い予感が的中した。
島津義弘(しまづよしひろ)以下、島津歳久(しまづとしひさ)新納忠元(にいろただもと)などは、徹底抗戦の構えを崩さなかった。
義弘の狙いは薩摩のみではなく、大隈、日向の安堵。
これを死守線と考えた。
九州制覇戦においても実質総大将であった義弘が屈服しなければ、島津の戦いは終わらない。
結果、義弘は粘り続け秀吉から三州の所有を認めさせた。
義弘の降伏により、事実上の秀吉による第二次九州征伐は終わるが、さらに波乱が起きる。
義弘が降伏した後も、三男歳久が徹底抗戦の構えを崩さなかったのである。
歳久としては、もともと秀吉との戦いは無謀と判断していた。
しかし、一旦戦ったのであれば最後まで戦う。
しかも、後継となる忠隣をこの戦で亡くしている。
やはり考えは一つ、徹底抗戦であった。
その意味としては、守護代の兄義弘とは異なっていた。
お家を第一に考えなければならない立場、当主義久。
さらに考え結末を優位に導く義弘。
純粋に武門の意地を通しつくす歳久。

①義久 → 本国薩摩の安堵
②義弘 → 本国薩摩の安堵 + 大隅・日向の一部
③歳久 → 薩摩武士の意地

三者三様である。

関白、豊臣秀吉を狙う島津歳久※画像は宮之城静かな街並み

2.島津の意地!島津歳久の抵抗

歳久は、秀吉の再三に渡る拝謁警告を歳久は無視し続けた。
「誠頑固者とは聞いておったが」
そして事件が起きる
秀吉は、わざと大軍にて宮之城を通過し、歳久を屈服させるつもりでいる。
そして、山崎を通過しようとしたその時。
歳久軍は秀吉軍斥候を斬り、奇襲をかけた。
秀吉は慌てることはなかったが、後にこの事件が義久を巻き込み島津家に悲劇を
起こすことになるのである。
戦国物語探訪シリーズ:北薩戦国物語参照)

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