1.九州平定間近の島津軍に、関白秀吉が激怒。

島津義久(しまづよしひさ)率いる島津四兄弟の九州制覇戦もほぼ完成する。
この報は直ちに大阪の関白「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)に届けられた。
大友宗麟(おおともそうりん)が、秀吉に泣きついたのである。
「これ以上は放っておけぬ、ただちに、九州に兵を送る」
秀吉の行動は素早かった。
九州征伐のはじまりである。
その数十万以上と伝えられ、中国の毛利、四国の長曾我部など西国大名を中心に大軍団は九州に上陸した。
「猿面間者如き男が」
島津軍は、戦意旺盛である。
1587年(天正14)12月。
仙石久秀(せんごくひさひで)を軍監とした四国勢が九州戸次に上陸し「第一次九州征伐」が勃発。
ついに豊臣勢との戦闘が始まった。
豊臣方は仙石秀久、長曾我部元親(ちょうそかべもとちか)、信親(ちょうそかべのぶちか)親子、十河存保(そごうまさやす)などを中心に四国勢が中心である。
一方の島津勢は島津家末弟の島津家久(しまづいえひさ)を中心に迎え撃つ。

豊臣秀長軍率いる別働隊が進む日向の地

2.長宗我部元親、仙石秀久を主力とした大軍団が島津家に襲い掛かる。

島津の戦術。
いつもの如くお家芸「釣り野伏せ」(つりのぶせ)である。
お約束通り一旦は攻めかかるものの、途端で引く。
釣り野伏せは、弱兵では使えない。
強兵の島津軍団であるからこそ使える戦法であり、敵はそれにかかるのである。
案の定、仙石秀久率いる、仙石勢が突撃して来た。
秀久は気が短く武功派であり、うってつけの相手であった。
秀久ではなく、長曾我部元親であればそうはいかない。
元親は歴戦の将であり、そうやすやすとは引っかからない。
南海の雄「長曾我部元親」たる所以である。
突出した仙石勢を救うため、他の部隊も仕方なく突撃を開始した。
暫くの激戦が続き、こともあろうか秀久が早々と敗走を開始。
変わりに災難だったのは長曾我部元親の嫡男、信親率いる長曾我部勢であった。
結果、信親は討ち取られ、これが後に元親の人生を大きく変えることになる。
島津勢は果敢に戦った信親の遺体を長曾我部家に返し、そして称えた。
戦国、男の美である。
結局この第一次九州征伐は、島津軍の勝利として終わるが、皮肉なことにさらに豊臣軍の底力を後に引き出すことになってしまうのであった。

九州三国志③第二次九州征伐~劣勢の島津義久

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