1.豊臣秀吉軍は大きく二方面より義久に迫る。

第一次九州征伐にて大敗を喫した豊臣軍は、関白「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)自らが腰を上げた。
秀吉軍は、大きく二方二面より九州に進軍し、
秀吉本隊は、熊本・八代より、別働隊は秀吉の弟「豊臣秀長」(とよとみひでなが)が豊後、府内より薩摩を目指した。
第二次九州征伐における動員数は、その数二十万と伝えられる。
あまりの大軍に島津義弘(しまづよしひろ)は支えきれずと判断し、豊後からの撤退を始める。
そして日向高城をめぐり戦いが始まった。
勇猛で知られる島津忠長(しまづただなが)も援軍に向かったが、高城も支えきれず、島津軍が薩摩へ撤退。

八代からも秀吉本隊が進み、薩摩本国に危機が迫る。
迷う島津家当主「島津義久」(しまづよしひさ)
義弘はじめ、義久を除く薩摩精強軍団は徹底抗戦の構えを崩さない。
秀吉軍がせまる中、義久決断の時が迫る。

島津義久、無念の降伏 ※画像は川内戦国村

2.大将「島津義久の決断」

八月、秀吉は肥後佐敷から出水に入った。
「一層の事、戦って果てるか」
「ここまで堂々と関白相手に戦った事で十分ではありませぬか」
義久と家臣とのやり取りが続く。
「関白に会おう・・・」
義久は遂に決断した。
既に川内(せんだい)には、秀吉軍が入り泰平寺(たいへいじ)を本陣としている。
そして、泰平寺にて義久が秀吉の前に進んだ。
〈このような男が関白なのか・・・猿〉
義久はプライドが高く、心底、力の違いを悔やんだ。
秀吉が判断を下した。
秀吉答えは薩摩一国のみの安堵であった。
第二次九州征伐は、まだ終わらない。

九州三国志④島津歳久の意地~義久降伏、しかし・・

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2件のコメント

北薩戦国物語プロローグ③ | 関白「豊臣秀吉」と「大坂城」 · 2023年2月16日 5:39 PM

[…] 織田信長が本能寺の変で倒れ、羽柴秀吉(はしばひでよし)が信長の実質的な後継者として台頭する。秀吉は、四国、中国を支配に収めたところで1583年(天正11)に大坂城築城を着手。正式な完成は、1598年(慶長3)とされるが、内堀、外堀の二重堀、そして豪華な天守閣を備えた紛れもなく日本一の城であった。関白となった秀吉は、この城が完成に近づくと同時に、1586年(天正14)九州の島津征伐に乗り出した。第一次九州征伐である。第一次で苦戦した豊臣軍であったが、第二次九州征伐にて島津義久(しまづよしひさ)、島津義弘(しまづよしひろ)兄弟を降し、返す刀で関東の北条氏をも降す。秀吉の全国統一である。この大坂城には、徳川家康、上杉景勝、毛利輝元、島津義久などが秀吉に拝謁し、秀吉に臣下の礼をとった権威の象徴でもある。大坂城を目の当たりにした大名達は、田舎百姓の秀吉に舌打ちしながらも恐れおののいたに違いない。しかし、この難攻不落と謳われた「大坂城」も、徳川家康により1614年(慶長19)大坂の陣にて落城。外堀も埋められ、天守も傷ついた大坂城は、豊臣家の滅亡と共に歴史の表舞台から姿を消すことになる。ちなみに大坂は、台地に沿った坂に町が形成されたことから、「小坂」(おさか)から「大坂」(おおさか)になったと伝えられる。 […]

九州三国志④島津歳久の意地~義久降伏、しかし・・・ · 2023年2月17日 11:21 PM

[…] なんと関白「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)から安堵されたのは薩摩一国のみであった。島津義久(しまづよしひさ)は、お家存続のためやむを得ず降伏したが、義久は悪感を覚えた。弟達の行動である。“義久降伏”それは通常であれば、島津家の降伏を意味する。義久の悪い予感が的中した。島津義弘(しまづよしひろ)以下、島津歳久(しまづとしひさ)、新納忠元(にいろただもと)などは、徹底抗戦の構えを崩さなかった。義弘の狙いは薩摩のみではなく、大隈、日向の安堵。これを死守線と考えた。九州制覇戦においても実質総大将であった義弘が屈服しなければ、島津の戦いは終わらない。結果、義弘は粘り続け秀吉から三州の所有を認めさせた。義弘の降伏により、事実上の秀吉による第二次九州征伐は終わるが、さらに波乱が起きる。義弘が降伏した後も、三男歳久が徹底抗戦の構えを崩さなかったのである。歳久としては、もともと秀吉との戦いは無謀と判断していた。しかし、一旦戦ったのであれば最後まで戦う。しかも、後継となる忠隣をこの戦で亡くしている。やはり考えは一つ、徹底抗戦であった。その意味としては、守護代の兄義弘とは異なっていた。お家を第一に考えなければならない立場、当主義久。さらに考え結末を優位に導く義弘。純粋に武門の意地を通しつくす歳久。 […]

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