1.島津家中興の祖「島津忠良」

伊作島津家(現在の日置市吹上町)の出身である島津忠良(しまづただよし)により、島津義久、義弘兄弟を中心とした戦国島津家が誕生する。
忠良は1512年、父「善久」の死により、相州家当主「島津運久」(しまづゆきひさ)の養子となることで伊作家そして、相州家の当主となる。
その頃、島津宗家の継承者争いが絶えなかった。
忠良は、宗家となった島津勝久(しまづかつひさ)と勝久(もと頴娃忠兼)の支援者であっものの宗家を狙う「島津実久」(しまづさねひさ)との争いに巻き込まれる形で、宗家の勝久を支援する。
勝久の養嗣子として子の「島津貴久」(しまづたかひさ)を送り込み、貴久を宗家当主とすることに成功するも、不安定な状況が続いた。
後に、島津実久、島津忠辰(しまづただたつ)を破り、ようやく貴久が真の宗家当主となったのは、1539年の事であった。
忠良は、日新斉(じっしんさい)と名乗り隠居するも、貴久と共に三州統一に乗り出す。
特に、大隅における祁答院良重(けどういんよししげ)の岩剣城を攻めた「岩剣城の戦い」においては、忠良、貴久と島津義久(しまづよしひさ)島津義弘(しまづよしひろ)島津歳久(しまづとしひさ)兄弟が一堂に揃ったのは有名である。
以降、義久、義弘、歳久、島津家久(しまづいえひさ)、島津忠恒(しまづただつね)と九州の雄として全国に名を轟かす戦国島津家であるが、忠良が「島津家中興の祖」と呼ばれる所以である。

島津忠良が生誕の地「亀丸城跡」

2.日新公「島津忠良」を祀る加世田「竹田神社」

日新公(じっしんこう)こと島津忠良公を祀る「竹田神社」(たけだじんじゃ)は、明治の廃仏毀釈時に同じく忠良の菩提寺であった曹洞宗「日新寺」(じっしんじ)の跡地に建立された。
「日新寺」から「竹田神社」のほか、「心岳寺」と「平松神社」。
「妙円寺」と「徳重神社」など。
廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)は薩摩にみられる特徴の一つである、
現在は、鹿児島県南さつま市の加世田にある竹田神社としてパワースポットと話題になっているのは、
境内のイヌマキの並木道「いにしへの道」である。
「日新公いろは歌」四十七石碑が並び、訪れた者を賢者の気分にさせる。
また、毎年7月23日には竹田神社夏祭りが開催され、県指定無形文化財の士踊りが奉納される。

日新公こと島津忠良公を祀る「竹田神社」

3.いろは歌「いにしへの道」と「日新公」の教え

禅を極め、「いろは歌」でも有名な忠良は、いろは歌を通じて島津四兄弟(義久・義弘・歳久・家久)を教育する。
後に、薩摩の郷中教育として広まっていくことになった。
忠良は、今後の戦国時代を生き抜いていかねばならない孫達四兄弟の観察にも余念がなかった。
①義久は三州の総大将たるの材徳自ら備わる。
②義弘は雄武英略を以て他に傑出。
③歳久は始終の利害を察するの智計並びなく。
④家久は軍法戦術に妙を得たり。
島津に暗君なしと謳われるが、その中でも特に島津四兄弟は傑出していたと伝えられる。
また、鹿児島においては島津義弘公の妙円寺が有名であるが、かつては、島津歳久の菩提寺「心岳寺」、島津忠良公の菩提寺「日新寺」も命日に参る習慣があった。
残念ながら「加世田詣り」と呼ばれた日新寺のお参行事もなくなっってしまったが、加世田の竹田神社には、いろは歌の想い「いにしへの道」が鹿児島の観光スポットのひとつとなっている。

日新公いろはかるた

1件のコメント

薩摩の猛将「島津義弘」と島津義弘公の菩提寺「妙円寺」 · 2023年2月15日 4:20 PM

[…] 島津義弘(しまづよしひろ)は、薩摩島津十七代当主であり薩摩の猛将である。祖父にいろは歌でも有名な「島津日新斉」(しまづじっしんさい)、父に十五代当主「島津貴久」(しまづたかひさ)を持ち、兄弟には、島津義久(しまづよしひさ)、島津歳久(しまづとしひさ)、島津家久(しまづいえひさ)がいる。そして、この兄弟はいずれも当主としての器量を兼ね備え優秀であったことから、九州においては島津四兄弟としてその名を轟かせた。義弘の青年期は、現在の鹿児島県、そして宮崎県である薩摩国、大隅国、日向国にて各豪族を巻き込んだ島津家の主権争い、そして、隣国との戦いに若くして参戦。この戦いは、三州統一戦(さんしゅうとういつせん)と呼ばれ、岩剣城の戦い(いわつるぎじょうのたたかい)が有名である。この岩剣城の戦いは、祖父「日新斉」、父「貴久」そして四兄弟が勢揃いした最初で最後の戦いであった。この戦いに勝利した日新斉、貴久は、島津家宗家の地位を安泰に導くことに成功する。しかし、三州統一を果たした島津家であったが、長年の宿敵である日向国「伊東義祐」(いとうよしすけ)が三千の兵を率いて義弘不在の「加久藤城」(かくとうじょう)を急襲。急遽帰城した義弘であったが、兵が揃わず百人にも満たない軍勢で戦いに挑む。義弘は、軍を三手に分けて伊東軍を混乱に導いた。これが世にいう「島津の釣り野伏せ」である。九州に義弘ありを決定づけたこの戦いは「木崎原の戦い」(きざきばるのたたかい)と後世に語り継がれ、稀に見る大逆転勝利は、後に九州の桶狭間(おけはざま)と謳われた。後に木崎原の戦いに敗れた伊東義祐は、豊後の大友宗麟(おおともそうりん)の元に逃れ島津氏の北上のけっかけを与えてしまう。一方、島津家は、十五代当主「貴久」から十六代当主「義久」へと代替わりを果たし、義弘を中心とした九州制覇戦へ突入していくのである。 […]

コメントを残す

アバタープレースホルダー

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です