島津家十九代「島津光久」が築いた「仙巌園(磯庭園)」とは?

1658年(万治元)年、島津家十九代「島津光久」によって築かれた島津家別邸の仙巌園。
磯庭園とも呼ばれる仙巌園であるが、名称は時代によって変化する。
廃藩置県後の1957年(昭和32)までの間は「磯公園」として呼ばれる時期もあったが、1995年(平成7年)に正式名称が「仙巌園」となる。
仙巌園は、日本各地の庭園とは、特徴が異なる。
鹿児島市が管理していた1949年(昭和24年)から1957年(昭和32年)までの間は「磯公園」とも呼ばれた
「錦江湾」を池として見立て「桜島」を築山に見立てた雄大な景観は、借景庭園として日本を代表する庭園として有名である。
仙巌園敷地内の「御殿」から見る「桜島」は、特にすばらしい。
この磯御殿は、その昔「迎賓館」として機能し、文化財である。
2006年には、この文化財「磯御殿」を中心に、仙厳園を飾るイベント「仙厳園物語~未来へ奔るアートの共演」が開催された。

仙厳園から錦江湾と桜島を望む

日本三名園に入らずも、 桜島と錦江湾をの望む日本一の借景庭園「仙厳園」

日本三名園には、金沢「兼六園」、水戸「偕楽園」、岡山「後楽園」の三名園が挙るが、仙厳園もそれには劣らない。
江戸から明治にかけて、仙巌園の敷地内とその周辺には、数々の軍事施設が存在した。
旧集成館反射炉跡がその代表であり、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産の一つとして、世界文化遺産に登録されている。
工芸としても有名な「薩摩切子」も本来は、軍事用品から工芸品となったものである。
などなど、それらの理由により日本三名園にはエントリーされなかったと予想される。

仙巌園のおもしろ情報

鹿児島の雨は半端じゃありません。
もし、仙巌園で大雨にあわれた場合は、庭園の排水システムを楽しみましょう。
なかなか見れません。(こんな方法考えた人はすごい)
落ち葉、ゴミも根こそぎ強引に流していきます。
雨が上がった後は、びっくりするほど水の引きが早い。

2006年開催されたイベント「仙厳園物語 ~未来へ奔るアートの共演」

石川県と鹿児島県のアーティスト達(石川県/鹿児島県地域文化交流会)により、
仙巌園(磯庭園)の空間の中、音楽・踊りの共演が行われた。
初めて夜の顔を一般に披露したライトアップ仙巌園は幻想的であり、多くの観客を魅了。
磯御殿に加賀紙子の灯りが創り出す空間の中、加治木島津家第十三代目当主「島津義秀」の薩摩琵琶が響きわたり、
桜島の前衛画家「萩原貞行」の円想のオブジェが創り出す空間と、小川銀次(元RCサクセション)が奏でるアコースティックギターに舞踏家達が舞う。
2006年4月には、島津義弘公を祭神とする「精矛神社」には、プレイベントが行われている。
[総合プロデユース:片倉洋二]

イベント「仙巌園物語~未来へ奔るアートの共演」

1件のコメント

島津義久から義弘へ、秀吉の九州平定後における島津宗家「島津義弘」の謎 · 2022年1月29日 3:39 PM

[…] 関白秀吉に降伏した島津家。その後、島津家守護は義久から義弘へ引き継がれ、十七代当主「島津義弘」の誕生となる。義弘は、朝鮮の役にて大陸へ渡り、特に、慶長の役「泗川の戦い」では、董一元率いる明の大軍20万を破り「鬼島津」として恐れられた。しかし、大きな問題も残った。豊臣政権での位置付け、方針など。先代でかつ兄「島津義久」との確執が、次第に深まっていく。その状況の中で関ヶ原の戦いを迎える事になった。関ヶ原の戦いにおいては、家康本陣の敵中突破を果たしながらも、薩摩国の意地を貫き通した義弘。以降、徳川家による度重なる難題も乗り越え、前田家、伊達家と並び外様大名の最高位に君臨。そして時代は幕末。遂に、薩摩藩は徳川幕府を倒すこととなる。今でも激動の地「薩摩」を、桜島が見守り、その桜島を望む島津家庭園「仙巌園」には、多くの観光客で溢れかえる。 […]

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