関ヶ原の戦い「島津の敵中突破」で有名な「島津義弘」公を祀る・精矛神社(くわしほこじんじゃ)

関ヶ原の戦い後に、家督を子「島津忠恒」(後の十八代当主「島津家久」)に譲り、自身は、加治木(鹿児島県姶良史加治木町)に隠居する。
義弘の神号は、精矛厳健雄命(くわしほこいずたけをのみこと)。
義弘の神号から精矛神社(くわしほこじんじゃ)と命名された。
精矛神社は、現在、加治木島津家十三代目当主「島津義秀」氏が宮司を務め、当時の郷中教育である舎を継承し、青雲舎を設立。
毎週末敷地内の自顕流道場には時代を切り裂く叫び声がこだまする。
春の桜の開花時は、特に美しく、お花見スポットとしてお勧めです。

鹿児島県姶良市加治木町日木山311

敷地内には、義弘公にまつわる歴史の品がたくさん

①朝鮮の渡航時、船の重石として使用した石臼

太閤秀吉による朝鮮の役にて、朝鮮半島を渡る船の重石として使用したもの。

②朝鮮伝来の手水鉢

朝鮮半島へ向かうときは、人や兵糧などの重みで船は安定するが、帰りは、人も兵糧も少なく船が軽く安定しないために石を積み込んでバランスをとった。

精矛神社の 『ど根性桜』

精矛神社の敷地内には、
平成十六年(?)の台風で倒れた桜の木が存在する。
度々写真家が訪れ、いつしか”ど根性桜”と呼ばれるようになった。
平成七年(?)に一度復旧したが、再び倒れ、平成十八年の春は、
倒れたまま桜の花を咲かせ、人々を驚かせた。
ここ精矛神社の空間は誠にすばらしい。
その力を得て、春には、見事な花を咲かせるであろう。
本記事を閲覧された日に、この桜の木が存在するかどうかは、保証できません。

島津義弘公祀、精矛神社の「ど根性桜」

加治木町『精矛神社 』を訪ねて

私が、鹿児島を訪れたのは、2002年の時であった。
(実際には、2回目であったが・・)
島津家(特に島津義弘公)に興味があったことから、当時のライオンズクラブO様に案内していただき、精矛神社を訪れた。
当時は、関ヶ原、敵中突破400周年の幟が数多く建てられ、気持ちが高ぶった記憶が今でもはっきりと覚えている。
(今でも、頂きました幟は、我が家に宝物として飾ってあります。)
さらに、宮司であり、加治木島津家十三代目当主「島津義秀」氏とお会いした時には、緊張のあまり大汗をかいた。
島津宮司に、義弘公と精矛神社そして、自顕流(じげんりゅう)の話をして頂く。
『薩摩の風に送られて』を出版していた私は、自顕流と示現流の違いすら分かっていなかった。
(来てよかった。)
それから、数年間、鹿児島県との地域交流を繰り返し石川県/鹿児島県地域文化交流会を設立。
島津家庭園「仙巌園」にてイベント「仙巌園物語~未来へ奔るアートの共演」を開催するに至る。
そのプレイベントとして、ここ精矛神社にて「薩摩琵琶とアートの共演」を開催した。
自顕流の使い手であり、薩摩琵琶の奏者でもある義秀宮司に薩摩琵琶の演奏をお願いし、無事にイベントを終えることが出来ました。
島津義秀さん、鹿児島、そして加治木町の皆様に心より感謝申し上げます。

加賀和紙がつくりだす空間の中「薩摩琵琶」が響き渡る


2件のコメント

家康に示し合わせた如く書状が | 第10章・1・豊臣からの書状 · 2023年2月19日 12:23 AM

[…] 豊臣秀頼がいる金沢城(かなざわじょう)より、使者が各地へ走った。岡山は、徳川勢力のど真ん中であり秀頼は、加藤清正、福島正則に守られ前田利長の金沢城へ入っている。使者の向った先は、徳川家康、奥州独立連合の伊達政宗、会津の上杉景勝、そして九州連合の島津義弘である。その書状には「上意」の文字が入り、以下の内容が書かれていた。・全ての諸大名は直ちに争いを中止する事。・各勢力の総帥は、直ちに加賀金沢へ参集する事。・参集時の港は、以下の通りとする。奥州独立連合   七尾湾上杉家      氷見港島津家      金沢港徳川を除いては、皆この書状内容を事前に知っている。これを見た家康は激怒した。「なめおって!!!」その数日後、タイミングを見計らったように島津家、伊達家、上杉家、前田家より一斉に書状が届いた。この四家は、事前に示し合わせてある。内容は、金沢に参集しない場合は、全てで討伐に当たるというものである。同時に届く事などからして、いかにも家康に対する当て付けであった。現在の状況から見て家康の勢力は、随一であるが完全に孤立している。全てを敵に回しては勝ち目が薄い。家康は、迷っている。 […]

第10章・2・迷う家康 | 家康の心を見透かす南光坊天海 · 2023年2月19日 12:27 AM

[…] 家康が天海を呼びつけた。天海が部屋に入り、家康の心を見透かしたかのように話す。「家康殿、迷っておられるな」家康は、豊臣方の思惑を風の噂で聞いている。豊臣方というより、島津義弘がという事も。「おのれ、義弘め」手の爪を、噛む癖が始まる。家康は、苦労の人生を回想した。幼少より今川義元の人質となり、解放されると織田信長がいた。信長が、本能寺で明智光秀の謀反で世を去ると、今度は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が立ちはだかった。海道一の弓取りと評されながらも、二番手に甘んじてきたこの男は、決して天下取りの野望を諦めることなく、着実に実力を付け辛抱強く好機を待ち続けた。今回も三成を利用し、豊臣恩顧の武将の分裂そして、前田家、佐竹家をはじめ対抗勢力の牙を抜き、全てが計画通りに進んでいた。しかし、又もあと一歩の所で思わぬ敵が現れた。<まだ終わったわけではない> […]

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