①島津忠恒、伊集院忠棟を成敗する。

京の伏見島津屋敷にて事件が発生した。
島津義弘の子、島津忠恒(しまづただつね)が島津家の重臣、伊集院忠棟(いじゅういんただむね)を殺害する。
伊集院忠棟、島津家重臣であるが、豪勇な島津では珍しく老獪な男であった。
また、石田三成(いしだみつなり)と通じており、打倒家康の暁には九州にて五十万石独立大名として知行を貰う手筈となっていた。
主家島津家に対しての背信行為である。
その情報を入手した忠恒が、忠棟を呼び出し今回の事件に至った。
それに、激怒したのが石田三成である。

②怒る「石田三成」、忠恒を詰める。

「忠恒殿は何処に」
島津屋敷に現れた三成に忠恒の家臣が答える。
「石田治部少輔様でござるか。どうぞこちらへ」
忠恒が何食わぬ顔で話し掛ける。
「おう、三成殿か!? 如何なされた?」
「如何なされたではござらぬ。なぜ忠棟殿を成敗なされたか理由をお聞かせ願おう」
「これは島津の問題でござる、貴殿に説明する必要はござらぬが・・・」
「島津の問題であろうと、忠棟殿はそれがしと共に豊臣政権の政務を行っておる」
「それにここは天下の伏見城。知らぬでは済まされぬぞ」
怒る三成に対し忠恒が挑発的な態度で応える。
「では、如何致す所存か?」
「明日、審議を行うゆえ、本丸へ来ていただこう」
忠恒は憮然とした表情で応える。
<ふん>
「分かり申した。そのように致す」
三成が重臣の舞兵庫(まいひょうご)に指示を出す。
「兵庫、島津は東に付くつもりじゃ、忠恒の監視を怠るな」

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島津家久と佐土原城址の歴史 · 2023年2月16日 1:28 PM

[…] 島津家久(しまづいえひさ)は、島津四兄弟の末弟として日向佐土原二万八千石の太守である。同じ家久の名を持つ島津家十八代当主「島津家久」は、島津義弘(しまづよしひろ)の子「島津忠恒」(しまづただつね)の改名後の名であり別人格だ。すなわち、義弘の弟の「家久」と義弘の子の「家久」である。義弘の子「忠恒」は、関ヶ原の合戦後に徳川家康(とくがわいえやす)から授かった「家」、そして島津代々の「久」から家久を名乗ることになった。ちなみに、島津忠恒についての著書は数少なく「薩摩の風に送られて」第一章・③島津忠恒の思惑においては、準主役的ポストで登場。以降は、義弘の弟「家久」の記述とする。家久は、祖父「日新斎」からは、「軍法戦術に妙を得たり」と評価される程に軍略に長け、兄の島津義久(しまづよしひさ)、義弘を支える参謀的ポジションでもあった。また「智略の家久」と称される反面、軍略以外にも武略にも優れ長身であり現在でいう「イケメン」であったと伝えられる。智略の家久と謳われた家久は、歴史上稀に見る大逆転劇という武勇伝の持ち主であった。九州三国志の一角「竜造寺隆信」(りゅうぞうじたかのぶ)との戦い「沖田畷の戦い」。天下人「豊臣秀吉」を相手に戦った「第一次九州征伐」における「戸次の戦い」。これは、島津家久の戦略そして戦術であった。 […]

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