①島津四兄弟の首領「島津義久」登場!

薩摩の内城に錚々たる顔ぶれが揃った。
守護の島津義弘とその子「島津忠恒」、竜伯こと兄「島津義久」、義弘の甥「島津豊久」、一門衆では武勇の誉れ高い島津忠長、鬼武蔵こと新納忠元、智将長寿院盛淳等、どれもが歴戦のつわものばかりである。
戦国期における島津家の戦いの歴史は、大きく三つに分けられる。
日新公「島津忠良」、その子「島津貴久」が関与し、薩摩、大隈、日向の島津家がそれぞれ覇権をかけて争った三州統一戦。
後に九州三国志として語り継がれ、九州統一を目指した九州制覇戦。
太閤秀吉の誇大妄想から起きた朝鮮の役がある。
当時は“島津触れるべからず”と敵から恐れられたが、どれも最強島津を世に知らしめた戦いだった。
そして、また歴史に残る新たな戦いが起きようとしている。

②「三州統一戦」、「九州制覇戦」、「朝鮮の役」以来の軍議始まる。

「これより軍議を始める」
家老、新納忠元の宣言で軍議が始まった。
「まず現況を長寿院盛淳が説明致す。盛淳殿お御願い致す」
「それでは、東西の現況報告を致す。東方への旗幟を鮮明にしている主な大名は、北より山形の最上義光、加賀の前田利長、伊予板島の藤堂高虎、豊前中津の黒田長政、等」
「対する西方は、北より会津の上杉景勝、常陸の佐竹義宣、中国の毛利輝元、備前の宇喜多秀家、肥後宇土の小西行長、等」
「加藤清正、福島正則など豊臣子飼いの将は三成嫌いから、東方に付くものと予想される」
盛淳は説明を終えると同時に、東西勢力図を広げた。
「うむ、皆の意見を述べよ。忠恒どうじゃ」

③島津の天下を望む「島津忠恒」と義久。

「はっ、それがしは、東西決戦の乱に乗じて九州を制圧する。その制圧した兵力を糾合し中央へ進み、東西勝った方と雌雄を決し
島津が天下を取るべきだと思いまする」
義久が同意する。
「よう言うた、忠恒。それでこそ島津の世継ぎじゃ」
義弘が話しを進める。
「忠元どうじゃ」
「それがしは、内府(家康)に付くことが得策と心得ておりまする。それがしとて、島津の天下が願いでございまする。されど、
九州制覇戦、朝鮮の役にて国力、特に財源が厳しい状況であり、天下を取るにはいささか難儀にござる」
忠恒が声を張り上げる。
「老いたか忠元、財源は確かに厳しいが、我らには最強の軍事力がありもんど」
話は中立を除き、大きく東か西かに割れた。
列席する家臣団の発言も一巡し、話が繰り返されているところで義久が義弘に決断を求める。
「義弘、わしは隠居の身。最終的にはおまんの意見に従うが、なれど天下を目指すがよかろう」
「島津が天下を取るならばこれが最後の機会じゃ」
「東に付いても冷遇、西に付いても三成の恨みあり。どちらにしてもよいことはなか」
忠恒も義弘に決断を求める。
「そろそろ父上の意見をお聞かせ願えんじゃろうか?」
暫くの沈黙が流れ、義弘が静かに口を開く。
「島津は天下を取らん」
忠恒が声を張り上げる。
「なぜじゃ!!!」
義久が忠恒を諌める。
「まあ、最後まで聞け。義弘、続けられよ」

④戦国最強と謳われた薩摩島津軍が再び動くか?

義弘が話しを続ける。
「天下は取らぬが、日の本で中心の一つとなる」
皆を代表するように義久が問いかけた。
「どういう事か、もう少し説明してくれんか?」
義弘と家臣団との間に暫くの問答が続く。
「天下三分の計・・・徳川に天下を取らし、徳川を中心とし北、中、南と日の本を三つに分ける」
「中央を徳川、南が島津は分かるが北はどこでござるか? 前田か?、最上か?」
「奴らでは役不足じゃ。この構想にはついてこれん。北にはおるではないか・・。最近は静かではあるが、野心ありありの男が」
「伊達か! なるほど奥州の独眼龍か! 最近は太閤に抑えられていたものじゃから、忘れておったわ」
忠恒以外、全ての者が興味を引いた様だ。
「基本的な構想はこれでよいな。・・・忠恒」
これで一応の基本方針が決定された。
忠恒は少々残念そうではあったが、島津が日の本を牽引するという事で渋々承諾した。

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第1章・九州の覇者 目次へ


1件のコメント

「島津義久」が晩年の居城とした鹿児島県霧島市「国分城」(舞鶴城) · 2022年2月20日 5:27 PM

[…] 戦国大名のパイオニアとして絶大な人気を誇る島津四兄弟。その四兄弟の長兄が国分城主である「島津義久」である。弟である次男「島津義弘」と比較されやすい義久であるが、義弘にはないカリスマ性を持つ。九州制覇戦でも見られるように、先頭に立ち軍を引っ張る「義弘」に対し、「薩摩の風に送られて・第1章~風立ちぬ」でも見られるように、国元でどっしりと安定感のある総指揮を執る「義久」。豊臣政権においては、秀吉を一線を引くことで島津の威厳を保ち、関ヶ原の戦いにおいても東西いずれも組せず。不仲説も噂される兄弟であるが、豊臣、徳川という中央政権に対し島津家を守るという面においては、この両殿体制というものが機能した。軍事においての将軍である義弘であるが、島津義久こそ真の大将である。 […]

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