①豊臣秀吉がこの世を去り、行く末に悩む島津家十七代当主、島津義弘。

嵐の前の静けさか。
大坂の島津屋敷も静かである。
そこに苦悩する一人の武将がいる。
島津家第十七代守護、島津義弘である。
そこに甥の豊久が現れた。
「叔父上、ただいま使者が着き申した」
義弘が答える。
「うむ、通せ」
この二人は、実の親子以上に絆が深い。
島津豊久、日向砂土原二万八千石の城主。
父は義弘の弟で今は亡き智将、島津家久である。
義弘には家久のほか、二人の兄弟がいる。
長男「島津義久」、島津家第十六代守護である。
豊臣秀吉の九州征伐軍には敗れはしたが、九州制覇という偉業を掴みかけた名将である。
三男「島津歳久」、この時既に他界してはいるが、武勇のみでは義弘をも凌駕すると噂された猛将であった。
この四人が、彼の有名な島津四兄弟である。
人徳の義久、武勇の義弘、そして今は亡き知略の家久と謳われていた。
義弘が使者に問う。
「で! 兄上の考えは?」
使者が答える。
「東西何方にも付かず中立せよ・・との」
義弘が呆れ顔で応える。
「やはりそうか・・・」

②島津の両殿体制、兄義久の思惑。

なぜ、義弘は兄義久からの使者を待っていたか?
義弘は義久には頭が上がらない。
幼き頃より、常に兄を立て生きてきている。
義弘が守護になった今も、義久は影の権力者として影響を及ぼしていた。
政治は義久、軍事は義弘。
俗にいう島津の両殿体制である。
義弘の考えは、中立はお家滅亡と考え東西何れかに属する。
出来ることであれば徳川方につき、薩摩大隈五十八石を存続させる。
しかし義久は東西の権力争いに島津が関わる事をよしと考えていない。
もともと兄義久は豊臣、徳川いずれも面白くないのである。
今でも家名では島津が上だと考えている。
現在でいえばプライドが高い。
しかし、義弘としては守護として島津の方針を決定せねばならない。
「豊久、わしは西方に付く事にした」
もともと現天下は豊臣家である。
その豊臣家を救うことが第一の筋である。
その他の理由と懸念としてはこうである。
以前に石田三成には多大な恩がある。
しかし西方が勝利しても三成が権力を握る以上もう一度乱が起きる。
家康及びその側近は、義弘が家康の野望に気付いている以上、味方には入れないとの予想。

「叔父上、一層のこと、この動乱に紛れて我が島津が天下を取ってみたら」
「つまらぬことを ・・・ 」
<わしがもう十年若ければ・・・>
義弘が使者に命じる。
「兄上に伝えよ・・島津は西に付くとな」
西とは大坂方、つまり石田三成方であり実質は豊臣方である。
対する東とは関東方で徳川家康方である。
義弘は家康の命である会津征伐に参陣しない事を決定した。
これで島津家としての方針が決まったが、京の伏見にて予期せぬ事態が発生した。


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