1.小説本文「第四章・1・九州大乱」

①「島津義弘」が関ヶ原へ向かう中、「島津忠恒」が九州制覇に着手。

美濃「関ヶ原」に、東西の主力が対峙したとの報が鹿児島城の島津忠恒に届いた。
1592年(文禄元)の「朝鮮の役」以来、島津家が動く。
手始めに島津忠長隊が日向肥沃五万石の伊藤祐兵(いとうすけたけ)を攻める予定である。
伊藤家は、島津家の九州制覇戦においても因縁の敵であり、飫肥城は、島津家と伊藤家との間で熾烈な争奪戦を繰り広げたこれまた因縁の城であった。

美しい宮崎(日向)の海岸

②「島津忠長」率いる先鋒が、日向飫肥へ進撃。

先鋒の島津忠長(しまづただなが)が兵三千で日向飫肥(ひゅうがおび)に向けて進発する。
「よし、城を囲み次第軍議を行う」
忠長は、出来れば伊藤勢が城から討って出て来る事を願っていた。
しかし、伊藤勢は討って出て来る事はなかった。
「よいか、この九州制覇ぐずぐずしている時間がないゆえ、時のかかる攻城戦は避けねばならん」
「あれをやるゆえ、餌さはだれがやる?」
川上忠克(かわかみただかつ)が名乗り出る。
「わいが、やりもす!」
「よし、早速明日決行じゃ、抜かりなきよう」
この夜、忠長軍とは別に、本国の薩摩より新たに三千の兵が飫肥城近くの山林に姿を隠すように移動した。

日向飫肥城

2.飫肥城の歴史

①島津氏と争奪戦を繰り広げた「飫肥城」

現在の宮崎県日南市飫肥にある『飫肥城』(おびじょう)は、「土持氏」(つちもちし)が南北朝時代に築城したと伝わる。
平安末期より日向国を中心に勢力を有した土持氏は、14世紀後半に伊藤氏(いとうし)を配下に迎える事で体制強化を図った。
しかし、その後の観応の擾乱(かんのうのじょうらん)を契機に両者の立場が逆転。
土持氏が、伊藤氏の配下となる。
九州では、この時すでに下剋上(げこくじょう)が起きていたのだ。
その後、土持氏に代わり日向の大半を手中に収めた伊藤氏は、薩摩の島津氏と長年にわたり飫肥城の争奪戦を繰り返し、島津家が暫く飫肥城の領有権を持つ。
戦国期に入り伊藤氏の当主は、伊藤義祐(いとう よしすけ)、祐兵(すけたけ)親子の時代となった。
義祐の飫肥城への執着は強く、1568年(永禄11)義祐は、大軍を率いて飫肥城を攻撃。
またもや、飫肥城争奪戦が続き最終的には、天下人「豊臣秀吉」の力を借りる事で飫肥城を与えられる結果となった。
本章「第四章・1・九州大乱」は、それに続くフィクションである。

飫肥城跡

②九州の小京都「飫肥城」観光

現在の飫肥城跡(おびじょうあと)がある飫肥は、戦国時代が終わり江戸期「飫肥藩」の歴史が色濃く残る城下町である。
飫肥は、城跡、武家屋敷のほか、人力車、四半的(しはんまと)体験が出来る事で有名な観光スポットであり、風情豊かな「九州の小京都」とも称される。
私が日南市「飫肥」を訪れた時には、3月で既に桜が咲いていた。
南九州は、珍しい事ではなく、暖かい日には1月、2月でもフライイング桜をよく目にする。
町並みは、とても美しく石垣が多く残り、国の重要伝統的建造物群保存地区にも指定される。

第四章・②島津の釣り野伏せ | 伊藤軍に襲い掛かる島津家のお家芸「釣り野伏せ」の恐怖


1件のコメント

第四章・②島津の釣り野伏せ | 伊藤軍に襲い掛かる島津家のお家芸「釣り野伏せ」の恐怖 · 2023年2月11日 7:26 PM

[…] 翌朝、飫肥城(おびじょう)近くに、島津方の将の一人、川上忠克(かわかみただかつ)が百人程の少人数にて城下を焼き払いに出撃した。城より数百の伊藤勢が討って出るも島津勢が逃げる。伊藤勢が城へ引き上げることを確認し、忠長が指令を出す。「まだ少ない、今少し兵を誘き出せ」昼過ぎ、また島津勢が少人数にて城下を焼き払った。城より数百の伊藤勢が討って出ると、またまた島津勢は逃げる。こんなことを何回か繰り返し続けた。夕方になり、再度島津勢が城下を焼き払うと、遂に伊藤勢が五百を超える兵を押し出し、本格的に島津勢に襲いかかって来た。島津勢が意図的に遅れながら逃げる。本陣より見つめる忠長が吼える。「とうとう来たな」島津軍前衛の目の前に、逃げる島津勢を追うように伊藤勢が迫ってきた。「よし! 左右へ開け」左右に開く島津勢を見た伊藤勢は、島津が逃げたものと勘違いし調子に乗り深追いしてきた。その後、伊藤勢の後方から黒十字の旗がなびく。前日、山林に姿を隠した隊である。黒十字は薩摩島津の紋章である。「しまった! 囲まれたか」 […]

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