烏頭坂、伊勢街道を経て堺に辿り着いた島津義弘。

伊勢路を抜け島津勢が堺に向けて走り抜ける。

途中、東西いずれかに加担する軍勢と遭遇したが、みな島津を見て見ぬ振りをした。

特にここまで大きな障害はなかった。

それより堺に出た後の方が難儀である。

島津のとった行動は既に大坂に広がっているであろう。

大坂湾には毛利水軍がいる。

これを突破して海路で薩摩へ帰らなければならない。

関ヶ原脱出より数日後、ようやく堺まで辿り着いた。

手配してあった船の確認を行う。

すると、毛利配下の水軍とは別の大船団があった。

島津水軍と長曾我部水軍である。

島津水軍の中には、島津忠長がいた。

大阪には四国を制圧した「島津忠長」が義弘を待つ。

「御無事で何より」

義弘が安堵の顔を浮かべ忠長に問う。

「なぜ、豊臣方である毛利水軍が襲ってこんのじゃ」

「実は、既に盛親殿のいない土佐、長曾我部家を占拠してござりまする」

忠長は、北九州の制圧後即、四国の土佐へ向かった。

土佐浦土は長曾我部家の所領である。

忠長率いる島津軍は苦労せず浦土城を攻め落としている。

土佐には、盛親が大半の兵を率いて関ヶ原に出張っていたため、手薄状態となっていた。

忠長は長曾我部家に土佐返還の条件を出した。

義弘が関ヶ原から薩摩へ引き上げるので、大坂湾に待機している毛利配下の水軍に取り合って欲しいと頼んだ。

そして島津水軍が土佐を通過して薩摩に戻るまで一切の手出しはしないというような条件である。

「それは、悪い事をしたのお!。薩摩に帰り次第、土佐を返すよう」

忠長が応える。

「はあ、早急に土佐より兵を引き上げまする、が、長曾我部家を味方に引き込もうと考えておりまする」


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