徳川家康、石田三成の東西両軍、関ヶ原に対峙

伊達政宗率いる、伊達軍団北へ走る。この一報を政宗は待っていたのだ。

ところで政宗はというと、会津征伐にて家康の要請に応え、会津信夫口より会津を窺っていた。
しかし、家康率いる東軍が中央へ引き返したので、上杉が東軍を追撃出来ないよう上杉の抑えとして会津近くに残っていた。
政宗本陣に中央情勢を探っていた黒幅巾が帰って来た。
「東西両軍、美濃の関ヶ原に対峙致しました」
政宗が笑顔で応える。
「そうか」
家康は、美濃まで遠のいたからには、南部攻めの時の様に戦の口実は要らなくなった。
「よし、上杉と和睦し一挙に奥州北部に進攻する」
奥州北部は、どちらかといえばあまり栄えていない土地である。
しかし、中央より離れた地でありながら、なかなかのやり手大名が多い。
これらを連合に取り込むため、政宗の目は北へ向いていた。
そして、上杉との和議が成立する。
上杉景勝は、謙信公よりの祖国である、越後奪還に乗り出した。
上杉は越後に兵を進めることにより、奥州南部の守りは暫く心配いらなかった。
上杉と伊達の利害関係が一致したのである。


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