①伊達政宗、片倉影綱の前に、鬼武蔵「新納忠元」が登場!!

南部領進攻中に、政宗の前に一人の使者が訪れた。
ただの使者ではない。
九州の雄、薩摩島津家の家老であり鬼武蔵「新納忠元」である。
「はじめてお目にかかりまする。薩摩島津家、家老の新納忠元でござりまする」
「うむ、政宗じゃ。お気を楽にして下され」
「かたじけのうござりまする」
政宗の隣には、片倉影綱の姿もある。

②「奥州」と「九州」、異次元の会談

鹿児島県伊佐市

新納忠元は二日前に伊達領に入り、既に影綱に用向きを伝えている。
「さて本題に入るとするか。話は影綱より聞いている」
「はあ、我が主義弘は日の本をまとめるだけではなく、その後の異国に対する備えからも現案がよいとの考えでありまする」
「うむ、異国か!」
政宗も同じ、異国を頭に入れている。
天下を取った後も日本が異国に侵攻されたら元もこうもない。
それに関しては、政宗も義弘も同じであり、同じ事を考えている義弘を快く思った。
「家康は異国を嫌うであろうな」
「はあ、そうなると日の本はますますとり残されてしまいまする」
「そうであろうの」
話はこの後も淡々と続いた。
<鬼武蔵、新納忠元か?恐ろしい男だ>
「よし!後日返答致す。ゆるり城下見物でもなされよ」


1件のコメント

北薩戦国物語探訪★四章・鬼武蔵!新納忠元の忠義~忠元神社と新納忠元ものがたり【伊佐市】 · 2022年1月27日 8:54 PM

[…] 島津家の庶流でもある新納忠元は、島津家臣団の中でも家老の格を担う家柄である。忠元は、島津貴久、義久、義弘兄弟の二代に渡り島津家臣団の中でも最も活躍した一人であった。三州統一戦、九州制覇戦に常に参戦し、その「武勇は鬼神の如し」と評される。また、戦国シミュレーション小説「薩摩の風に送られて」 第二章・10・薩摩よりの使者の中でも、島津の天下三分の計により手を組んだ「伊達政宗」への使者としても見られるように、交渉術にかけ文武両道の武将であったことが窺える。戦場に手の武勇伝が多い忠元であるが、忠元の武勇伝は、それにとどまらない。有名なのは、秀吉の九州平定後のエピソードである。義久、義弘が降参後、止むを得ず武装解除をし秀吉に拝謁した時の事であった。秀吉が忠元に対し「まだやる気があるのか」との問いかけに、忠元は、主君「義久」が戦えばやりますよと返している。また、秀吉の側近「細川幽斎」が、忠元が白髭を手でもち上げながら酒盃を呑み干した様子を見て、「鼻の下にて鈴虫ぞなく」と詠んだ。すると忠元は、「上髭を ちんちろりんとひねりあげ」と上の句をつけて返歌する。それには、居並ぶ他の諸将も大いに感心した。恐らく、薩摩の田舎侍には・・と腹の内では思っていたのでは。知勇兼備の武将「新納忠元」であったが、天保年間に伊佐七ヶ郷は凶作による貧困から脱却するために大規模な村起しを行った。そして、大口地頭であり知勇兼備の武将「新納忠元」を精神的拠所として「忠元神社」を創建する。旧大口市である伊佐市には、今でも新納忠元の物語と精神が受け継がれている。 […]

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