①美しさならここ、薩摩の小京都「知覧」

ここ「知覧」は、平安時代から佐田氏が治めていたが、
義久、義弘の時代には、文禄の太閤検地により一時的に「種子島久時」が移封される。
結局のところ、種子島氏は、種子島に戻ることで佐田氏が再び知覧を納めることになる。ちなみに、昭和天皇の皇后である香淳皇后(こうじゅんこうごう)の母は、島津忠義の令嬢であること、そして、種子島家は島津家と濃い親戚関係ということから、今上天皇は種子島家の血が引くことにもなる。
知覧には、知覧城も存在し島津百十三の外城のひとつとして発展。
現在のような美しい街並みになったのは、江戸期以降と想定される。
肥後(熊本)との国境にて物々しい雰囲気の出水武家屋敷と比べると美しい「知覧武家屋敷」。
私個人としては、「出水武家屋敷群」の方がお勧めですが、美しさを求めるのであれば、薩摩の小京都「知覧武家屋敷群」ですかね。

知覧武家屋敷跡

②知覧武家屋敷跡(ちらんぶけやしきあと)鹿児島県南九州市知覧町郡

NHK大河ドラマ「西郷どん」、「天璋院篤姫」にも登場。
重要伝統的建造物群保存地区に指定。
佐多直忠邸は、地頭「佐多氏」佐多氏十八代島津久峯の時代と伝えられる。
知覧の武家屋敷は。沖縄でよく見られる石垣で屋敷が区切られた石敢當(魔よけの石碑)が特徴で、屋敷入口には、屋敷内が見えないように屏風岩もある。
沖縄の雰囲気が感じられたのは、そのためか?

古代氏族「建部姓」佐多氏の歴史

大隅国発祥の氏族である佐多氏は、建部姓を持つ日本の古代氏族「建部氏」の流れを組む。
建部氏は、日本武尊の名代部として歴史舞台に登場し、承久の乱における宇治川の戦いにて戦死することで一時は、断絶した。
その後、薩摩の島津家四代当主「島津忠宗」の三男「島津忠光」が大隅国・佐多に入り『佐多氏』を称することで、佐多氏が復活することとなる。
その後、十四世紀中ごろになると足利尊氏により薩摩国知覧を与えられ、途中、種子島家に明け渡すことになるが、以降知覧の領主として長く知覧を治めることになる。
江戸期、知覧の島津家は、知覧島津家として栄え、嫡男は、島津家を称し、他は、佐多氏を称することになる。
戦国期における活躍は、十代当主「佐多久政」、十一代当主「佐多久慶」である。
特に久政は、三州統一戦、九州制覇戦にも戦功を挙げ、島津宗家に貢献している。


1件のコメント

「出水武家屋敷」島津外城の一つであり、肥後国境における重要拠点 · 2022年2月20日 3:56 PM

[…] 薩州島津家、島津忠辰の本拠であったが、外城として整備されされたのは、忠辰改易後三十年後である。出水小学校正門は、殿様来訪時の宿舎である御假(おかけ)の名残で、御假屋門が残る。“人をもって守りとなす“武田信玄の人は城、人は石垣と通ずる名言であるが、当時島津領内には城らしい城は存在しなかった。人をもっての通り、全ては人であるを実行し、領内に百十三の外城と呼ばれる武家屋敷を兼ねた防御線が存在する。出水武家屋敷群(鹿児島県鹿児島県出水市)が残るここ出水は肥後(熊本)との国境にて、特に精鋭が集められたと伝えられる。知覧武家屋敷群の美しさとは対照的な、少々荒々しさが感じられるのは私だけか?国の重要伝統的建造物群保存地区(平成7年) […]

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