1.平氏「四流派」と「桓武平氏」

平氏四流派の中で、桓武天皇の子孫にあたる「平」姓を賜った家系を指す平氏を、桓武平氏と呼ぶ。
さらに、葛原親王(かずらわらしんのう)の孫『高望王』(たかもちおう)の流れを組む平氏を特に『桓武平氏』と呼んだ。
織田信長や薩摩の風に送られて・第10章④で登場する七尾城主「畠山氏」も桓武平氏の流れを組む。

平氏四流派

①仁明天皇[54]→仁明平氏 
②文徳天皇[55]→文徳平氏 
③桓武天皇[57]→桓武平氏 桓武天皇の王子、葛原親王(かずらわらしんのう)を祖とする
④光孝天皇[58]→光孝平氏 

桓武平氏と伊勢平氏

桓武平氏「平貞盛」から坂東八平氏として関東に地盤を築くが、四男「平維衡」(たいら の これひら)は、伊勢国に地盤を築く。
これが、伊勢平氏の始まりとなり以降、平正盛の孫『平清盛』が権力を掌握することになる。

2.平清盛の勢力を拡大させた「保元の乱」と「平治の乱」

1156年(保元元)皇位継承問題で崇徳上皇と後白河天皇が対立。
また、摂関家の内紛も複雑に絡むことで『保元の乱』が勃発した。
この時、伊勢平氏『平清盛』、河内源氏『源義朝』が後白河天皇に付き活躍する。
勝利した後白河天皇は、側近の信西に荘園公領制の成立を急がせた。
それに反対する後の二条天皇との間に1159年(平治元)争いが起きる。
これが、平治の乱である。
この戦いでは、最終的には、信西が二条天皇方に付き、清盛もそれに従った。
結果、二条天皇方が勝利し、清盛の権威もさらに増していくのである。
ちなみに、後白河天皇方に付いた源義朝(源頼朝の父)は、この世を去る。

3.平清盛の栄華~平家にあらざれば人にあらず

保元の乱、平治の乱に勝利した平清盛は、後白河上皇・二条上皇の二人に仕え、さらに出家した後白河法皇の猶子として入内することで盤石な体制を築く。
摂関家とも良好な関係を築いた敵なしの清盛に、後白河法皇も焦りを感じ始める。
1179年(治承3)法王は、遂に清盛封じに出るも返り討ちにされてしまう。
これが治承三年の政変であるが、その法皇を幽閉するに至る。
また、北陸加賀の小松市原町には、平清盛の寵愛を受けた白拍子『仏御前』と仏御前の里が有名である。

平清盛系図

4.打倒「平家」源氏勢力の挙兵

北陸宮が身を隠していた富山県「朝日」と日本海の荒海

栄華を極める平清盛であったが、横暴な平氏に対する不満が国内に広がった。
後白河法皇の皇子「以仁王」(もちひとおう)が立ち上がり打倒「平清盛」を宣言。
ここに「源平合戦」として後世に伝わる治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)が始まるのである。
北陸からは、北陸宮を擁し源義仲こと「木曽義仲」が倶利伽羅峠の戦いを経て西上し、関東からは、「源頼朝」が挙兵する。
実質的な源氏の大将である源頼朝が挙兵する中、1181年に平家の大将『平清盛』がこの世を去る。
享年64歳であった。

カテゴリー: 戦国武将一覧

4件のコメント

平維盛と倶利伽羅峠の戦い(猿ヶ馬場)の平家軍本陣跡 · 2022年3月13日 7:57 PM

[…] 平維盛(たいらのこれもり)は、平氏一門の嫡流であり平清盛の嫡孫にあたる。平氏一門の嫡流であり、あまりの美貌と容姿から「光源氏の再来」と称された維盛は、対源氏東方における大将軍となった。しかし、1180年(治承3)の富士川の戦い。そして、1183年(寿永2)の倶利伽羅峠の戦い[石川県津幡町と富山県小矢部市の中間]の、いずれも重要な戦いにて大敗北を喫し、その地位も追われることになる。その後、一ノ谷の戦い(1184年)後は、高野山に入り出家するも船で那智の沖にある山成島に渡り入水自殺したとされるが、正式な死因は不明である。 […]

白山信仰の聖地である福井「平泉寺」と神秘的な御手洗池 · 2023年1月18日 9:02 PM

[…] 727年(養老元)、泰澄によって開かれたと伝えられる白山信仰の聖地「平泉寺」(福井県勝山市平泉寺町平泉寺)。明治時代までは「霊応山平泉寺」であったが、神仏分離から平泉寺白山神社となった。白山信仰としての歴史を残す平泉寺であるが、僧兵による戦いの歴史も多々存在する。源平時代には、平家軍による越前の在地反乱勢力鎮圧戦の時である。平清盛の命を受けた平維盛率いる平家軍が北陸越前へ進軍。1183年(寿永2)、倶利伽羅峠の戦いの前哨戦ともなる「火打城の戦い」(ひうちじょうのたたかい)において、源氏軍の木曽義仲(源義仲)から平家軍の迎撃の命を受けた仁科守弘は、火打城(燧ケ城ともいう)を築城。その火打城(福井県南越前町)には、平泉寺の僧兵も援軍として入っていた。戦いは、標高267Mの山城に、日野川をせき止め人工湖を造ることで大要塞と化した火打城に平家軍も手が出ない。しかし、火打城に入っていた平泉寺の「長吏斎明」が人工湖の情報を持って平家軍に内通したことで火打城は落城。その後、加賀国、越中国の境界線となる津幡「倶利伽羅」にて両軍が激突した「倶利伽羅峠の戦い」時に木曽義仲の怒りを買った「斎明」は、処刑されている。倶利伽羅峠の戦いの後には、木曽義仲が戦勝祈願、さらに源頼朝に追われた源義経主従が、小松の安宅の関を通過する前に平泉寺に立ち寄ったなどの伝説も残る。僧兵の活躍が目立ち、荒々しさが感じられる平泉寺であるが、境内は、至って静かである。数々の石畳や石垣、一面を覆いつくした苔が美しく、神秘的な参道は、北陸随一。北陸新幹線「敦賀延伸」時は、特にお勧めスポットです。 […]

木曾義仲が倶利伽羅峠の戦いで戦勝祈願した「埴生八幡宮」 · 2023年2月2日 2:33 PM

[…] 昭和58年に源平倶利伽羅合戦800年祭を記念し建立された日本一の源義仲像。日本一の騎馬像というわけではありません。木曽義仲(源義仲)は、河内源氏の一族で源頼朝や義経兄弟とは従兄弟にあたる。平清盛(たいらのきよもり)を筆頭とする平氏を排除すべく後白河法皇の第三王子「以仁王」(もちひとおう)が、全国に平氏打倒を命じる令旨(りょうじ)を発する。それにいち早く反応したのが源氏の地を引く信州の木曽義仲であった。頼朝よりも早く上洛作戦を遂行した義仲は、以仁王の第一王子「北陸宮」(ほくろくのみや)を擁し、それを大義名分とすることで平家軍と戦う。倶利伽羅峠古戦場でも語り継がれるように義仲は、戦の天才でもある。倶利伽羅峠の戦いにて勝利をおさめた義仲は、その後に京へ上り平氏の駆逐に成功した平安末期の英雄であった。源平盛衰記では、それに随行したのが「巴御前」と語り継がれ、義仲と共に戦うと同時に、互いを大切に思うような関係であったと解釈される。平安における愛の象徴「義仲」と「巴御前」による恋愛成就。そして、人生勝負の時には、義仲の騎馬像の前に立ち、武神として崇敬を集めた八幡神で戦勝祈願していては如何でしょうか。 […]

第10章・④政宗の想い | 金沢にて家康との最終決戦のため、伊達政宗もいざ七尾港へ · 2023年2月19日 12:31 AM

[…] 戦国末期、前田利家が能登「小丸山城」に入る以前の「七尾」は、能登畠山氏が七尾城主として能登を支配していた。畠山氏は、平清盛と同じく桓武平氏の流れを組む名家として能登国守護となり七尾城を築く。栄華を極めた畠山氏であるが、1576年(天正4)上杉謙信の西上が本格化。謙信は、上洛する過程で春日山城と共に五大山城に数えられる堅城「能登七尾城」を、放置するわけにはいかなかった。織田信長との決戦の前に、七尾城を落としておきたい謙信は、遂に七尾城の攻城戦に着手する。これが、「九月十三夜」で有名な『七尾城の戦い』である。その後、七尾城を攻め落とし「手取川の戦い」にて織田信長軍を破った謙信も志半ばでこの世を去る。謙信亡き七尾には、織田信長配下の『前田利家』が入るが、山城の不便さを理由に七尾湾に近い平地の『小丸山城』を築き「七尾港」を整備した。フィクションである「薩摩の風に送られて」においては、その七尾港に伊達政宗が寄港した設定となっている。 […]

コメントを残す

アバタープレースホルダー

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です