その夜事件が起こった。
加藤清正をはじめとする豊臣子飼いの武闘派大名が、三成を襲ったのである。
豊臣子飼いには、武断派と文官派が存在する。
武断派は加藤清正、福島正則、細川忠興、黒田長政、加藤嘉明、浅野幸長、池田輝政等。
文官派は主に石田三成、長束正家等で小西行長等はこれらに近い。
武断派と文官派は、常日頃から仲が悪い。
現代で言えば事務と現場のようなもので、お互いの立場、主張ですれ違いがある。
朝鮮の役でも、現場の武断派が事務の文官派に讒言されて秀吉に報告されたという遺恨があった。
喧嘩は喧嘩でも主張しあった結果、お互いを伸ばしていくのなら未だよい。
しかし大体は内部にていがみ合い、つぶし合うのが殆どである。
現代社会でも大企業になればなるほど、こういう傾向があるのではないか。
この両派を収めるのが上に立つものの大事な仕事の一つであり、それが秀吉であった。
しかし今は、その秀吉はいない。
そんな中、逃げ場のない三成が思わぬ行動に出た。
家康のもとへ逃げたのである。
なぜ敵である筈の家康のもとへ逃げたかというと、三成は分かっていた。
己を利用して豊臣の両派に完全な亀裂を入れようと策している事を。
<家康め、火種のわしを殺せまい>
結局のところ武断派達は、家康に説得され三成を討つ事が出来なかった。
三成は心の中で叫んだ。
<わしの勝ちじゃ>
しかし家康は、この事件を起こした原因は三成にもあるとし、自分の代わりに三成を伏見城へ移す事に成功。
家康が大坂に入ってからは、伏見には政務を行うために残っている、ごくわずかな大名しかいなかった。
殆どは大坂に移ったのである。
だれもいない場所へ三成が、逆に家康は大坂城に入る事で諸大名との繋がりを再びとり始めた。
第二ラウンドは、家康の勝利と言えよう。
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