家康は兵二千のみを率いて京都の伏見城へ入った。
伏見城は豊臣政権の政務を行う拠点である。
伏見城に五大老及び、五奉行が集まった。
今後の体制を確認するためである。
当時、豊臣政権では五大老、五奉行制を執っていた。
五大老とは徳川家康、前田利家この二人が筆頭格で、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家がいる。
五奉行とは浅野長政、増田長盛、石田三成、前田玄以、長束正家である。
秀吉は遺言にて五大老及び、五奉行合議の上で政を行う事と残している。
家康は伏見に入りすぐ諸大名の屋敷を訪問した。
特に加藤清正、福島正則、細川忠興等。
石田三成嫌いの諸大名に的を絞る。
三成は豊臣政権を実質的に動かす実力者であり、カミソリの様な男として他の大名より恐れられている。
その反面、義にあつく曲がったことを好まない。
要するに頭が硬い所があった。
その為に敵が多い。
三成は、家康の動きを警戒した。
その事について利家に頼み込み、家康と諸大名を切り離すために太閤秀吉の遺書を持ち出す。
家康は伏見城で政務を、他は伏見にて政務を行う以外は秀頼と供に大坂城へ移ることを表明したのである。
秀吉の遺書には、家康は伏見にて政務を行い、利家は秀頼を後見するため大坂城に入る事が記されている。
「やられたな、まさか遺書まで持ち出すとは」
家康は、爪をかみながら苦笑した。
これで家康は、諸大名との繋がりをもつ事が少々困難となった。
まずは、三成の勝ちである。
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