1.関ヶ原の戦い、悲劇の猛将「島津豊久」と「天昌寺」

①「島津豊久」公の菩提寺『 天昌寺跡 』

1385年に石屋禅師が建立した妙通寺(みょうつうじ)を天昌寺(てんしょうじ)と改名した曹洞宗の寺院。
「関ヶ原の戦い」における敵中突破時に「捨て奸(すてがまり)」を決行し華々しく散った島津豊久の佐土原家は、合戦後に家康から日向佐土原を没収された。
その後、佐土原家の家臣達が永吉(現在の鹿児島県日置市吹上町永吉)に移り、豊久と永吉島津家の菩提寺として正式に天昌寺とする。
豊久の墓は、歴代当主とともに永吉の天昌寺跡敷地内にあり、関ヶ原の戦いにて戦死した岐阜県大垣市上石津町上多良にも供養塔が存在する。

島津豊久公の菩提寺『天昌寺跡』

②島津豊久と島津義弘の戦い

島津豊久は、島津四兄弟の末弟「島津家久」の子として、島津家日向佐土原家の二代目当主となる。
青年期には、沖田畷の戦い、根白坂の戦いなどに参戦し、父家久の後継として見事な働きを見せる。
また、朝鮮半島での熾烈な戦い「朝鮮の役」でも、少数精鋭にて見事に明・朝鮮連合軍にも勝利。
島津義弘(しまづよしひろ)と共に、シーマンズとして恐れられた。
豊久は、父家久の死後、叔父となる島津義弘を慕い、義弘によく仕えた。
そして、関ヶ原の戦いが起きる。
義弘は、数百人という薩摩六十万石としては少なすぎる軍勢を率いて参戦。
徳川家康へ配慮するあまり、義弘に援軍を送ることを渋った本国の島津義久(しまづよしひさ)に対し、他の諸将たちは、義弘への援軍を試みる。
義久は、援軍の禁止令を出すが、豊久は、日向佐土原兵三百を伴い、禁止令を破り義弘の元に駆けつける。
手勢が少ない義弘にとって、豊久の援軍は、心強かったであろう。
他の諸将も駆けつけたが、合わせも千人にも満たない軍勢であった。
その窮地の中で関ヶ原の戦いが始まるわけであるが、寡兵の島津軍は無駄に動かず時を待った。
自陣の大将「石田三成」の使者も、豊久が刀を振りかざし追い返している。
そして、自陣の小早川秀秋の裏切りで、味方の敗戦が確実となったその時。
遂に島津義弘、豊久率いる島津軍が動いた。
敗走する味方は、西に向かって逃げる中、島津軍は、敵の総大将「徳川家康」率いる東へ向かったのである。
これが、有名な『島津の敵中突破』や『島津の退き口』と呼ばれる、歴史上類を見ない脱出劇であった。
その先頭に立ったのが、島津豊久である。
最強島津の強さを知る敵の軍勢は、道を開き島津軍は、伊勢街道を南へ方向転換し戦場を離脱していった。
当然、徳川軍も指を咥えて見るわけもなく、徳川最強部隊である「本多忠勝」「井伊直政」が島津軍を追撃。
流石の島津軍も、最終兵器を持ち出した。
非常の戦術『捨て奸(すてがまり)』である。
次々と、殿(しんがり)部隊が倒される中、遂に大将格でもある豊久が自ら「捨てがまり」を決行。
迫る、井伊直正率いる「井伊の赤備え」。
豊久は、直政に的を絞り見事に打撃を与える事に成功。
その中には、家康の子「松平忠吉」の姿も見えたが、負傷し落馬することで徳川軍の進撃がとまる。
しかし、当然の如く豊久も激闘の末、討ち死にすることになる。

2.薩摩軍法「捨て奸(すてがまり)」とは

捨て奸(すてがまり)とは、戦国末期最強の軍団と恐れられた薩摩島津家の戦法の一つとして恐れられた「非情の戦法」として知られ、本隊の撤退時に、本隊を逃がすために追撃する敵兵の足止めする戦法である。
小人数にて殿(しんがり)を受け持ち、その小隊が全滅すると、さらに別の小隊が新しくしんがりを受け持つ。
それを繰り返すことで、敵の追撃の足を鈍らせることを目的とするが、話は、そう簡単なことではない。
その理由は、その小隊が全滅することである。
ここが、薩摩島津の凄味であり、しんがり兵の殆どが志願兵であることが驚きである。
死が確定的であるしんがりをなぜ志願するのか?
その秘密は、志願兵の保証である。
志願兵の家族に対する戦後補償が確実に実行され、その保障に対しての信頼度の高さが、この非情の戦法を成立させていたのである。

捨て奸で関ヶ原にて散った「島津豊久」

1件のコメント

第一章・①迷い | 豊臣秀吉の死と、苦悩する島津義弘~薩摩の風に送られて(ここから始まります) · 2023年2月16日 1:52 PM

[…] 嵐の前の静けさか。大坂の島津屋敷も静かである。そこに苦悩する一人の武将がいる。島津家第十七代守護、島津義弘(しまづよしひろ)である。そこに甥の島津豊久(しまづとよひさ)が現れた。「叔父上、ただいま使者が着き申した」義弘が答える。「うむ、通せ」この二人は、実の親子以上に絆が深い。島津豊久、日向砂土原二万八千石の城主。父は義弘の弟で今は亡き智将、島津家久(しまづいえひさ)である。義弘には家久のほか、二人の兄弟がいる。長男「島津義久」(しまづよしひさ)、島津家第十六代守護である。豊臣秀吉の九州征伐軍には敗れはしたが、九州制覇という偉業を掴みかけた名将である。三男「島津歳久」(しまづとよひさ)、この時既に他界してはいるが、武勇のみでは義弘をも凌駕すると噂された猛将であった。この四人が、彼の有名な島津四兄弟である。人徳の義久、武勇の義弘、そして今は亡き知略の家久と謳われていた。義弘が使者に問う。「で! 兄上の考えは?」使者が答える。「東西何方にも付かず中立せよ・・との」義弘が呆れ顔で応える。「やはりそうか・・・」 […]

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