「島津義久」公、晩年の城である鹿児島「国分城」

島津家第十六代当主である島津義久は、秀吉の九州征伐以降、「富隈城」そして、「舞鶴城(国分城)」へと本拠を移した。
義弘の代になっても、影の権力者としての存在感を示した義久であったが、
関ヶ原の合戦後の十八代当主、忠恒(後の家久)の時代には、国分(現在の鹿児島県霧島市)にまで居を移し国政への影響力を徐々に薄めることになる。
島津久信を十八代当主として推したことで、後に忠恒からの脅威をかわすために国分へ転じた等、様々な説が存在するが、薩摩大隅の国境防衛、タバコの生産奨励など現在の霧島市の礎を築く。
現在でも、深夜営業を含む規律、そして、この街の教育は特に厳しい。
それは、島津義久公の薩摩精神教育からくるものではないだろうか?

国分新城や舞鶴城とも呼ばれる霧島市「分城」
鹿児島県霧島市・国分城(舞鶴城)

島津四兄弟の主柱である国分城主「島津義久」の歴史

戦国大名のパイオニアとして絶大な人気を誇る島津四兄弟。
その四兄弟の長兄が国分城主である「島津義久」である。
弟である次男「島津義弘」と比較されやすい義久であるが、義弘にはないカリスマ性を持つ。
九州制覇戦においても、先頭に立ち軍を引っ張る「義弘」に対し、「薩摩の風に送られて・第1章~風立ちぬ」でも見られるように、国元でどっしりと安定感のある総指揮を執る「義久」。
豊臣政権においては、秀吉を一線を引くことで島津の威厳を保ち、関ヶ原の戦いにおいても東西いずれも組せず。
不仲説も噂される兄弟であるが、豊臣、徳川という中央政権に対し島津家を守るという面においては、この両殿体制というものが機能した。
軍事においての将軍である義弘であるが、島津義久こそ真の大将である。

島津義弘と薩摩の旅、随時掲載中
小説・薩摩の風に送られて・目次


11件のコメント

第一章・①迷い | 豊臣秀吉の死と、苦悩する島津義弘~薩摩の風に送られて(ここから始まります) · 2023年2月11日 7:46 PM

[…] 義弘には家久のほか、二人の兄弟がいる。 長男「島津義久」(しまづよしひさ)、島津家第十六代守護である。 […]

岩剣城(いわつるぎじょう)の戦いで、島津義弘が祁答院良重を撃破 · 2023年2月15日 4:11 PM

[…] 日新公「島津忠良」(しまづただよし)、島津貴久(しまづたかひさ)、島津四兄弟が顔を揃えた由一の戦いと伝えられる岩剣城の戦い(いわつるぎじょうのたたかい)。祁答院に本領を持ち、大隅地方に勢力を伸ばしていた祁答院良重(けどういんよししげ)は、蒲生範清(かもうのりきよ)ら大隅の豪族と図り、島津貴久に反旗を翻す。蒲生軍が、配下の肝付氏が守る「加治木城」(かじきじょう)を攻撃し戦いが始まった。加治木城を救援すべく、島津忠良、貴久親子が出陣するが、目障りな城があった。岩剣城である。忠良、貴久親子は、まず「岩剣城」を攻めるため、島津義久、義弘兄弟を差し向ける。この時、「息子たちである兄弟のうち、一人の命を落とさなければ落ちないであろう」と岩剣城攻めの難しさを嘆いた。この岩剣山は独特の形にて、近くでを見上げれば「剣」のイメージが容易に付く。しかし、岩剣城攻城戦に島津義久(しまづよしひさ)、島津義弘(しまづよしひろ)、島津歳久(しまづとしひさ)が活躍。この時、義弘自らが鉄砲を使用したなど、国内で初めて鉄砲が実戦に用いられたとして知られる。岩剣城の戦いに勝利した島津家は、その勢いで「三州統一」を成し遂げる。 […]

薩摩の猛将「島津義弘」と島津義弘公の菩提寺「妙円寺」 · 2023年2月15日 4:24 PM

[…] 島津義弘(しまづよしひろ)は、薩摩島津十七代当主であり薩摩の猛将である。祖父にいろは歌でも有名な「島津日新斉」(しまづじっしんさい)、父に十五代当主「島津貴久」(しまづたかひさ)を持ち、兄弟には、島津義久(しまづよしひさ)、島津歳久(しまづとしひさ)、島津家久(しまづいえひさ)がいる。そして、この兄弟はいずれも当主としての器量を兼ね備え優秀であったことから、九州においては島津四兄弟としてその名を轟かせた。義弘の青年期は、現在の鹿児島県、そして宮崎県である薩摩国、大隅国、日向国にて各豪族を巻き込んだ島津家の主権争い、そして、隣国との戦いに若くして参戦。この戦いは、三州統一戦(さんしゅうとういつせん)と呼ばれ、岩剣城の戦い(いわつるぎじょうのたたかい)が有名である。この岩剣城の戦いは、祖父「日新斉」、父「貴久」そして四兄弟が勢揃いした最初で最後の戦いであった。この戦いに勝利した日新斉、貴久は、島津家宗家の地位を安泰に導くことに成功する。しかし、三州統一を果たした島津家であったが、長年の宿敵である日向国「伊東義祐」(いとうよしすけ)が三千の兵を率いて義弘不在の「加久藤城」(かくとうじょう)を急襲。急遽帰城した義弘であったが、兵が揃わず百人にも満たない軍勢で戦いに挑む。義弘は、軍を三手に分けて伊東軍を混乱に導いた。これが世にいう「島津の釣り野伏せ」である。九州に義弘ありを決定づけたこの戦いは「木崎原の戦い」(きざきばるのたたかい)と後世に語り継がれ、稀に見る大逆転勝利は、後に九州の桶狭間(おけはざま)と謳われた。後に木崎原の戦いに敗れた伊東義祐は、豊後の大友宗麟(おおともそうりん)の元に逃れ島津氏の北上のけっかけを与えてしまう。一方、島津家は、十五代当主「貴久」から十六代当主「義久」へと代替わりを果たし、義弘を中心とした九州制覇戦へ突入していくのである。 […]

九州三国志①島津四兄弟の九州制覇戦~戦国最強軍団が九州を北上 · 2023年2月15日 4:33 PM

[…] 1586年(天正14)、関白「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)は、中国の毛利輝元(もうりてるもと)、四国の長曾我部元親(ちょうそかべもとちか)を降し徳川家康(とくがわいえやす)をも従えた。全国制覇もほぼ完成しつつある。残るは関東の北条氏政(ほうじょううじまさ)、奥州の伊達政宗(だてまさむね)、そして九州・薩摩島津氏の島津義久(しまづよしひさ)、島津義弘(しまづよしひろ)兄弟のみとなった。これまでの九州は、豊後の大友宗麟(おおともそうりん)をはじめ、肥前の竜造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)、薩摩・大隈の島津義久、義弘を中心に三国が凌ぎを削り後に九州三国志(きゅうしゅうさんごくし)と謳われるようになる。その後、状況は一転。均衡を破ったのは島津であった。島津は長兄であり当主の義久を筆頭に、義弘、島津歳久(しまづとしひさ)、島津家久(しまづいえひさ)と稀代の名将で島津四兄弟(しまづよんきょうだい)と恐れらた。義久は本国にてどっしりと構え、義弘は前線にて指揮を執る。島津四兄弟率いる島津軍は、薩摩から大隈、日向の三州を統一し、九州三大勢力の一角を占めるほどに成長した。いよいよ九州制覇戦(きゅうしゅうせいはせん)へ突入した島津軍は、怒涛の如く北上を開始。そして、九州最大勢力である大友宗麟と雌雄を決する日が訪れた。九州制覇戦の3大決戦のひとつ「耳川の戦い」である。臼杵城(うすきじょう)を出陣した大友宗麟は、三万を超える大軍を持って日向国に進軍を開始した。 […]

九州三国志②天下人、豊臣秀吉との対決~長曾我部元親との絆 · 2023年2月15日 4:35 PM

[…] 島津義久(しまづよしひさ)、九州をほぼ制覇。この報は直ちに大阪の関白「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)に届けられた。大友宗麟(おおともそうりん)が、秀吉に泣きついたのである。「これ以上は放っておけぬ、ただちに、九州に兵を送る」秀吉の行動は素早かった。九州征伐のはじまりである。その数十万以上と伝えられ、中国の毛利、四国の長曾我部など西国大名を中心に大軍団は九州に上陸した。「猿面間者如き男が」島津軍は、戦意旺盛である。1587年(天正14)12月。仙石久秀(せんごくひさひで)を軍監とした四国勢が九州戸次に上陸。ついに豊臣勢との戦闘が始まった。豊臣方は仙石秀久、長曾我部元親(ちょうそかべもとちか)、信親(ちょうそかべのぶちか)親子、十河存保(そごうまさやす)などを中心に四国勢が中心である。一方の島津勢は島津家末弟の島津家久(しまづいえひさ)を中心に迎え撃つ。 […]

九州三国志④島津歳久の意地~義久降伏、しかし・・・ · 2023年2月15日 4:42 PM

[…] なんと関白「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)から安堵されたのは薩摩一国のみであった。島津義久(しまづよしひさ)は、お家存続のためやむを得ず降伏したが、義久は悪感を覚えた。弟達の行動である。“義久降伏”それは通常であれば、島津家の降伏を意味する。義久の悪い予感が的中した。島津義弘(しまづよしひろ)以下、島津歳久(しまづとしひさ)、新納忠元(にいろただもと)などは、徹底抗戦の構えを崩さなかった。義弘の狙いは薩摩のみではなく、大隈、日向の安堵。これを死守線と考えた。九州制覇戦においても実質総大将であった義弘が屈服しなければ、島津の戦いは終わらない。結果、義弘は粘り続け秀吉から三州の所有を認めさせた。これで戦いは終わったと思いきや、さらに波乱が起きる。義弘が降伏した後も、三男歳久が徹底抗戦の構えを崩さなかったのである。歳久としては、もともと秀吉との戦いは無謀と判断していた。しかし、一旦戦ったのであれば最後まで戦う。しかも、後継となる忠隣をこの戦で亡くしている。やはり考えは一つ、徹底抗戦であった。その意味としては、守護代の兄義弘とは異なっていた。お家を第一に考えなければならない立場、当主義久。さらに考え結末を優位に導く義弘。純粋に武門の意地を通しつくす歳久。 […]

島津家久と佐土原城址の歴史 · 2023年2月16日 1:37 PM

[…] 島津家久(しまづいえひさ)は、島津四兄弟の末弟として日向佐土原二万八千石の太守である。同じ家久の名を持つ島津家十八代当主「島津家久」は、島津義弘(しまづよしひろ)の子「島津忠恒」(しまづただつね)の改名後の名であり別人格だ。すなわち、義弘の弟の「家久」と義弘の子の「家久」である。義弘の子「忠恒」は、関ヶ原の合戦後に徳川家康(とくがわいえやす)から授かった「家」、そして島津代々の「久」から家久を名乗ることになった。ちなみに、島津忠恒についての著書は数少なく「薩摩の風に送られて」第一章・③島津忠恒の思惑においては、準主役的ポストで登場。以降は、義弘の弟「家久」の記述とする。家久は、祖父「日新斎」からは、「軍法戦術に妙を得たり」と評価される程に軍略に長け、兄の島津義久(しまづよしひさ)、義弘を支える参謀的ポジションでもあった。また「智略の家久」と称される反面、軍略以外にも武略にも優れ長身であり現在でいう「イケメン」であったと伝えられる。智略の家久と謳われた家久は、歴史上稀に見る大逆転劇という武勇伝の持ち主であった。九州三国志の一角「竜造寺隆信」(りゅうぞうじたかのぶ)との戦い「沖田畷の戦い」。天下人「豊臣秀吉」を相手に戦った「第一次九州征伐」における「戸次の戦い」。これは、島津家久の戦略そして戦術であった。 […]

鹿児島県南さつま市の加世田「竹田神社」と島津家中興の祖「島津忠良」(日新公) のいろは歌 · 2023年2月16日 1:41 PM

[…] 伊作島津家(現在の日置市吹上町)の出身である島津忠良により、義久、義弘を中心とした戦国島津家が誕生する。 父「善久」の死により、相州家当主「島津運久」(しまづゆきひさ)の養子となることで、1512年に忠良は、伊作家そして、相州家の当主となる。 その頃、島津宗家の継承者争いが絶えなかった。 忠良は、宗家となった島津勝久(頴娃忠兼)と勝久の支援者であっものの宗家を狙う「島津実久」との争いに巻き込まれる形で、宗家の勝久を支援する。 勝久の養嗣子として子の「島津貴久」を送り込み、貴久を宗家当主とすることに成功するも、不安定な状況が続いた。 後に、島津実久、島津忠辰を破り、ようやく貴久が真の宗家当主となったのは、1539年の事であった。 忠良は、日新斉と名乗り隠居するも、貴久と共に三州統一に乗り出す。 特に、大隅における祁答院良重の岩屋城を攻めた「岩屋城の戦い」においては、忠良、貴久と島津義久(しまづよしひさ)、島津義弘(しまづよしひろ)、島津歳久(しまづとしひさ)兄弟が一堂に揃ったのは有名である。 以降、義久、義弘、忠恒と九州の雄として全国に名を轟かす戦国島津家であるが、忠良が「島津家中興の祖」と呼ばれる所以である。 […]

北薩戦国物語プロローグ③ | 関白「豊臣秀吉」と「大坂城」 · 2023年2月16日 5:44 PM

[…] 織田信長が本能寺の変で倒れ、羽柴秀吉(はしばひでよし)が信長の実質的な後継者として台頭する。秀吉は、四国、中国を支配に収めたところで1583年(天正11)に大坂城築城を着手。正式な完成は、1598年(慶長3)とされるが、内堀、外堀の二重堀、そして豪華な天守閣を備えた紛れもなく日本一の城であった。関白となった秀吉は、この城が完成に近づくと同時に、1586年(天正14)九州の島津征伐に乗り出した。第一次九州征伐である。第一次で苦戦した豊臣軍であったが、第二次九州征伐にて島津義久(しまづよしひさ)、島津義弘(しまづよしひろ)兄弟を降し、返す刀で関東の北条氏をも降す。秀吉の全国統一である。この大坂城には、徳川家康、上杉景勝、毛利輝元、島津義久などが秀吉に拝謁し、秀吉に臣下の礼をとった権威の象徴でもある。大坂城を目の当たりにした大名達は、田舎百姓の秀吉に舌打ちしながらも恐れおののいたに違いない。しかし、この難攻不落と謳われた「大坂城」も、徳川家康により1614年(慶長19)大坂の陣にて落城。外堀も埋められ、天守も傷ついた大坂城は、豊臣家の滅亡と共に歴史の表舞台から姿を消すことになる。ちなみに大坂は、台地に沿った坂に町が形成されたことから、「小坂」(おさか)から「大坂」(おおさか)になったと伝えられる。 […]

九州三国志③第二次九州征伐~劣勢の島津義久 · 2023年2月17日 10:33 PM

[…] 八代からも秀吉本隊が進み、薩摩本国に危機が迫る。迷う島津家当主「島津義久」(しまづよしひさ)。義弘はじめ、義久を除く薩摩精強軍団は徹底抗戦の構えを崩さない。秀吉軍がせまる中、義久決断の時が迫る。 […]

心岳「島津歳久」と竜ヶ水の「平松神社」 · 2023年2月18日 4:23 PM

[…] 島津歳久(しまづとしひさ)は、島津四兄弟の三男として薩摩祁答院の太守である。1563年(永禄6)から松尾城(吉田城)に入り、大隅国吉田院の領主となり、1580年(天正8)吉田院から自害するまでの間、祁答院の領主として活躍する。歳久は、兄「島津義弘」(しまづよしひろ)をも凌駕すると言われ、武略の歳久として名を馳せた。兄「島津義久」(しまづよしひさ)曰く、義弘は死を恐れない戦いをし、歳久は死を望むかの如く戦いをする。それを案じた義久は、無謀なまでに敵と戦う歳久を、身近な本陣に留めておくことも多々あったとか。そのため、他からは義久の参謀の様に映ったことから「智謀の歳久」とも称された。1576年(天正4)、この頃から本格的な島津家の九州制覇戦が始まる。歳久は、日向の伊東義祐(いとうよしたけ)、豊後の大友宗麟(おおともそうりん)と戦い、また、肥前の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)との沖田畷の戦いにおいては、肥後国の佐敷(さじき)に本陣を置いていた。これが、後の梅北一揆に起因するかは不明である。そして、関白「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)の九州征伐がはじまる。歳久は、天下人秀吉と島津家の力の差を察し義久に抗戦反対の意を示した。しかし島津家は、戦争に突入し敗北を喫することになる。当初、抗戦反対の意を示した歳久は、後に降参した義久に従わず、秀吉に弓を弾き後に秀吉の怒りを買う結果となった。一度戦えば、とことんやり通す!これが、武略の歳久こと「島津歳久」という漢である。 […]

北薩戦国物語プロローグ③ | 関白「豊臣秀吉」と「大坂城」 へ返信する コメントをキャンセル

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