大口(現在の伊佐市)と共に肥後国境を守る、出水武家屋敷跡(いずみぶけやしきあと)

薩州島津家、島津忠辰の本拠であったが、
外城として整備されされたのは、忠辰改易後三十年後である。
出水小学校正門は、殿様来訪時の宿舎である御假(おかけ)の名残で、御假屋門が残る。
“人をもって守りとなす“
武田信玄の人は城、人は石垣と通ずる名言であるが、
当時島津領内には城らしい城は存在しなかった。
人をもっての通り、全ては人であるを実行し、
領内に百十三の外城と呼ばれる武家屋敷を兼ねた防御線が存在する。
出水武家屋敷群(鹿児島県鹿児島県出水市)が残るここ出水は肥後(熊本)との国境にて、
特に精鋭が集められたと伝えられる。
知覧武家屋敷群の美しさとは対照的な、少々荒々しさが感じられるのは私だけか?
国の重要伝統的建造物群保存地区(平成7年)

出水市公開武家屋敷「竹添邸」

鶴・ツルの越冬地でも有名な出水市

北薩戦国物語・第1章~薩摩騒然!関白秀吉の北薩入り」に登場する秀吉による九州平定時、秀吉が薩摩入りしたのは、4月ということから出水には、まだ鶴が残っていたかもしれない。
出水に越冬中の鶴は、秀吉の大軍団が現れさぞかし驚いたことであろう。
もっとも、当時に越冬してのであればであるが。
出水市ツル観察センターでは、出水市の風物詩ともいえるツルの美しい舞を間地かで見ることが出来ます。

島津義弘と薩摩の旅、随時掲載中
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1件のコメント

薩摩藩の外城制度「麓集落」の歴史をもつ「知覧武家屋敷」は、薩摩の小京都として南九州市の観光スポットの代表として大人気 · 2022年2月20日 4:41 PM

[…] ここ「知覧」は、平安時代から佐田氏が治めていたが、義久、義弘の時代には、文禄の太閤検地により一時的に「種子島久時」が移封される。結局のところ、種子島氏は、種子島に戻ることで佐田氏が再び知覧を納めることになる。ちなみに、昭和天皇の皇后である香淳皇后(こうじゅんこうごう)の母は、島津忠義の令嬢であること、そして、種子島家は島津家と濃い親戚関係ということから、今上天皇は種子島家の血が引くことにもなる。知覧には、知覧城も存在し島津百十三の外城のひとつとして発展。現在のような美しい街並みになったのは、江戸期以降と想定される。肥後(熊本)との国境にて物々しい雰囲気の出水武家屋敷と比べると美しい「知覧武家屋敷」。私個人としては、「出水武家屋敷群」の方がお勧めですが、美しさを求めるのであれば、薩摩の小京都「知覧武家屋敷群」ですかね。 […]

薩摩藩の外城制度「麓集落」の歴史をもつ「知覧武家屋敷」は、薩摩の小京都として南九州市の観光スポットの代表として大人気 へ返信する コメントをキャンセル

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