1.島津北上!九州制覇戦の始まり

1586年(天正14)、関白「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)は、中国の毛利輝元(もうりてるもと)、四国の長曾我部元親(ちょうそかべもとちか)を降し徳川家康(とくがわいえやす)をも従えた。
全国制覇もほぼ完成しつつある。
残るは関東の北条氏政(ほうじょううじまさ)、奥州の伊達政宗(だてまさむね)、そして九州・薩摩島津氏島津義久(しまづよしひさ)島津義弘(しまづよしひろ)兄弟のみとなった。
これまでの九州は、豊後の大友宗麟(おおともそうりん)をはじめ、肥前の竜造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)、薩摩・大隈の島津義久、義弘を中心に三国が凌ぎを削り後に九州三国志(きゅうしゅうさんごくし)と謳われるようになる。
その後、状況は一転。
均衡を破ったのは島津であった。
島津は長兄であり当主の義久を筆頭に、義弘、島津歳久(しまづとしひさ)、島津家久(しまづいえひさ)と稀代の名将で島津四兄弟(しまづよんきょうだい)と恐れらた。
義久は本国にてどっしりと構え、義弘は前線にて指揮を執る。
島津四兄弟率いる島津軍は、薩摩から大隈、日向の三州を統一し、九州三大勢力の一角を占めるほどに成長した。
いよいよ九州制覇戦(きゅうしゅうせいはせん)へ突入した島津軍は、怒涛の如く北上を開始。
そして、九州最大勢力である大友宗麟と雌雄を決する日が訪れた。
九州制覇戦の3大決戦のひとつ「耳川の戦い」である。
臼杵城(うすきじょう)を出陣した大友宗麟は、三万を超える大軍を持って日向国に進軍を開始した。

大友宗麟の居城「臼杵城」

2.九州席巻「耳川の戦い」と「沖田畷の戦い」

1578年(天正6)、「高城川の戦い」「高城川原の戦い」とも呼ばれる九州三国志における大決戦「耳川の戦い」が現在の宮崎県木城町で火花を斬った。
大友宗麟は、大軍を持って数任せに島津軍に襲い掛かる。
数倍の大友軍に敗走と見せかけ後退を繰り返す島津軍。
”島津恐れるに足らず”
大友軍は勢いに乗り島津軍を追撃した。
しかし、これは島津軍の罠であった
事態は急変。
大友軍が耳川を超えた時、島津軍が急反転し反撃を開始する。
残る島津隊も側面から大友軍に襲い掛かった。
世に言う島津の「釣り野伏せ」である。
精強な薩摩兵。
大友軍を蹴散らすには、そう時間は必要としなかった。
大友宗麟は豊後に敗走。
島津軍の完勝であるとともに、ここに九州三国志の一角が崩れる。
その後、島津四兄弟は快進撃を続け、遂に竜造寺隆信を沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい)で破り、九州のほぼ全土を制覇することで、九州制覇戦も終盤に入る。

九州三国志②天下人、豊臣秀吉との対決

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5件のコメント

島津忠長が率いる先鋒隊が飫肥城へ出陣 | 第四章・1・九州大乱 · 2023年2月11日 7:03 PM

[…] 美濃「関ヶ原」に、東西の主力が対峙したとの報が鹿児島城の島津忠恒に届いた。1592年(文禄元)の「朝鮮の役」以来、島津家が動く。手始めに島津忠長隊が日向肥沃五万石の伊藤祐兵(いとうすけたけ)を攻める予定である。伊藤家は、島津家の九州制覇戦においても因縁の敵であり、飫肥城は、島津家と伊藤家との間で熾烈な争奪戦を繰り広げたこれまた因縁の城であった。 […]

九州大乱!島津も天下取りに乗り出すか? | 第四章・6・宇土略奪 · 2023年2月14日 8:10 PM

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九州三国志③第二次九州征伐~劣勢の島津義久 · 2023年2月17日 10:35 PM

[…] 第一次九州征伐にて大敗を喫した豊臣軍は、関白「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)自らが腰を上げた。秀吉軍は、大きく二方二面より九州に進軍し、秀吉本隊は、熊本・八代より、別働隊は秀吉の弟「豊臣秀長」(とよとみひでなが)が豊後、府内より薩摩を目指した。第二次九州征伐における動員数は、その数二十万と伝えられる。あまりの大軍に島津義弘(しまづよしひろ)は支えきれずと判断し、豊後からの撤退を始める。そして日向高城をめぐり戦いが始まった。勇猛で知られる島津忠長(しまづただなが)も援軍に向かったが、高城も支えきれず、島津軍が薩摩へ撤退。 […]

九州三国志②第一次九州征伐、天下人「豊臣秀吉」との対決 · 2023年2月17日 10:38 PM

[…] 島津義久(しまづよしひさ)率いる島津四兄弟の九州制覇戦もほぼ完成する。この報は直ちに大阪の関白「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)に届けられた。大友宗麟(おおともそうりん)が、秀吉に泣きついたのである。「これ以上は放っておけぬ、ただちに、九州に兵を送る」秀吉の行動は素早かった。九州征伐のはじまりである。その数十万以上と伝えられ、中国の毛利、四国の長曾我部など西国大名を中心に大軍団は九州に上陸した。「猿面間者如き男が」島津軍は、戦意旺盛である。1587年(天正14)12月。仙石久秀(せんごくひさひで)を軍監とした四国勢が九州戸次に上陸し「第一次九州征伐」が勃発。ついに豊臣勢との戦闘が始まった。豊臣方は仙石秀久、長曾我部元親(ちょうそかべもとちか)、信親(ちょうそかべのぶちか)親子、十河存保(そごうまさやす)などを中心に四国勢が中心である。一方の島津勢は島津家末弟の島津家久(しまづいえひさ)を中心に迎え撃つ。 […]

薩摩の猛将「島津義弘」と島津義弘公の菩提寺「妙円寺」 · 2023年2月19日 12:10 AM

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