「島津義弘の突然の行動に徳川家康、石田三成が困惑。

徳川本陣より、井伊の紅備えが前衛に出て来た。
「紅備えが突っかけてこんうち、退却にはいるど」
島津勢が長寿院盛淳を先頭に西軍の宇喜多勢に攻撃を開始した。
石田三成は動転する。
「島津が東軍についたぞ!」
宇喜多勢が反撃を開始した。
宇喜多秀家が不思議そうに呟く。
「義弘殿ともあろう方が、なぜ」
島津勢と宇喜多勢の戦闘が続く。

島津豊久を先陣に、後の語り草となる「島津の敵中突破」が始まる。

しかし、いきなり後陣を勤めていた豊久が急に反転し、正反対の東軍へ矛先を変えた。
このため西軍への攻撃には、通常は先陣を承るはずの豊久が後備えになっていたのであった。
島津勢の全てが反転する。
これで通常の鋒子の陣になった。先鋒は豊久、二陣は山田有栄、本陣の義弘、しんがりは盛淳である。
家康も驚く。
「西軍に突っかけたと思ったら、今度はこっちに来たぞ」
<一体、島津は何を考えておるのじゃ>
東軍は立ち塞がったが、少々意表を付かれた事もあり対処が遅れた。
家康が叫ぶ。
「何をしておるのじゃ。はよう押しつぶせ」
東軍の諸将は、島津の怖さを知っている。
押しつぶすどころか、道を開きだす。
それを見て、慌てて本多忠勝が立ちふさがり、ここで初めて激戦になった。
井伊の紅備えと同じく、徳川最強部隊として名高い本多勢が押され始めた。
二十倍以上の明軍を撃破する島津軍であり、突破するだけであれば、さほどの問題はなかった。
そこに、島津を追いかけてきた、宇喜多勢が東軍に雪崩込む。
島津勢に加え、西軍までもが入り乱れ、乱戦が始まった。
豊久が笑いながら叫ぶ
「とうとう始まってもたわい」
まるで、ひと事である。
義弘が撤退の合図を出す。
「わしらは邪魔じゃて、そろそろ抜けるど」
それと同時に島津勢は右へ方向を変え、伊勢街道を南へ立ち去ってしまった。


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「島津豊久」公の菩提寺・天昌寺跡(てんしょうじ) · 2022年12月7日 9:46 PM

[…] 島津豊久は、島津四兄弟の末弟「島津家久」の子として、島津家日向砂土原家の二代目当主となる。青年期には、沖田畷の戦い、根白坂の戦いなどに参戦し、父家久の後継として見事な働きを見せる。また、朝鮮半島での熾烈な戦い「朝鮮の役」でも、少数精鋭にて見事に明・朝鮮連合軍にも勝利。島津義弘と共に、シーマンズとして恐れられた。豊久は、父家久の死後、叔父となる島津義弘を慕い、義弘によく仕えた。そして、関ヶ原の戦いが起きる。義弘は、数百人という薩摩六十万石としては少なすぎる軍勢を率いて参戦。徳川家康へ配慮するあまり、義弘に援軍を送ることを渋った本国の島津義久に対し、他の諸将たちは、義弘への援軍を試みる。義久は、援軍の禁止令を出すが、豊久は、日向砂土原兵三百を伴い、禁止令を破り義弘の元に駆けつける。手勢が少ない義弘にとって、豊久の援軍は、心強かったであろう。他の諸将も駆けつけたが、合わせも千人にも満たない軍勢であった。その窮地の中で関ヶ原の戦いが始まるわけであるが、寡兵の島津軍は無駄に動かず時を待った。自陣の大将「石田三成」の使者も、豊久が刀を振りかざし追い返している。そして、自陣の小早川秀秋の裏切りで、味方の敗戦が確実となったその時。遂に島津義弘、豊久率いる島津軍が動いた。敗走する味方は、西に向かって逃げる中、島津軍は、敵の総大将「徳川家康」率いる東へ向かったのである。これが、有名な『島津の敵中突破』や『島津の退き口』と呼ばれる、歴史上類を見ない脱出劇であった。その先頭に立ったのが、島津豊久である。最強島津の強さを知る敵の軍勢は、道を開き島津軍は、伊勢街道を南へ方向転換し戦場を離脱していった。当然、徳川軍も指を咥えて見るわけもなく、徳川最強部隊である「本多忠勝」「井伊直政」が島津軍を追撃。流石の島津軍も、最終兵器を持ち出した。非常の戦術『捨て奸(すてがまり)』である。次々と、殿(しんがり)部隊が倒される中、遂に大将格でもある豊久が自ら「捨てがまり」を決行。迫る、井伊直正率いる「井伊の赤備え」。豊久は、直政に的を絞り見事に打撃を与える事に成功。その中には、家康の子「松平忠吉」の姿も見えたが、負傷し落馬することで徳川軍の進撃がとまる。しかし、当然の如く豊久も激闘の末、討ち死にすることになる。 […]

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